カテゴリ:業界( 88 )

「凱風通信」から

 版元さんから頂いたDMをチェックしていたところ、凱風社さんのご案内、「凱風通信」が目にとまる。

 PD叢書なるシリーズがあることを恥ずかしながら初めて知る。今月発売になるのは『嫌戦 坂口安吾アンソロジー』なのだそうだ。これは興味深い。社会科学の言葉も大事だが、文学の言葉も大事、僕のような文学音痴にはもってこいだ。期待したい。

 もうひとつ、気になったところ。「二〇〇八年を振り返って」という小さなコラム。流通について記されている。凱風社さんのところへは「返品了解」を求める書店からのファックスが絶えないそうだが、凱風社さんは委託期限を過ぎた返品もすべて入帖していらっしゃるのだそうだ。となると、どうも取次の体制が絡んでくるようで、このコラムでも「個別事情を無視して取次が一方的に『逆送』するのは、書店にとっても版元にとっても百害あって一利なしだ」と記されている。

 僕は大変に共感したが、ふと、わが身を翻ってみるに、新刊委託はともかくも、注文品を売りきっているかと言えばそんなことはないのであって、さあ取次さんにも何かしらの課題はあるだろうけれども、それを言えるほどの何ものかがなしえているかは心もとない。

 そりゃあいざ交渉事になれば、食うか食われるか、口八丁手八丁で取次さんとも版元さんともやりあってきたつもりだし、これからもやるつもりではあるけれども、なんかこう、じっくりと関係性を築きながら読者・顧客に提案していくようなことが、少しずつでも出来ればとも思う。
  
 まあ、身をもって示していくしかないんですがね。
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by todoroki-tetsu | 2009-01-02 23:19 | 業界 | Comments(0)

『まんがで読破 資本論』

 快進撃を続けるイースト・プレスさんの「まんがで読破」シリーズ。『資本論』がとうとう出た。

 よくまあこんな風にアレンジしたなあ、というのが第一の感想。すごい着想だと思う。しばしば『資本論』は一番最初が難しく、そこを通り越すと徐々に面白くなってくるなどと言われ、その例として第一巻第八章「労働日」が挙げられたりするけれども、まさにここに焦点を当てた、という感じ。たぶん定義的なものをすっとばして『資本論』について語ろうとするならば、そうしたことになるんだろうと思う。

 『資本論』に至るまでの道筋というのは色々あるんだろうと思う。極めて教科書的(?)にいえば『空想から科学へ』『賃金・価格・利潤』『反デューリング論』といった順なのだろうけれども、実は、『
イギリスにおける労働者階級の状態』が一番なんじゃないだろうか、という気がこれを読んでみて強く感じたこと。

 要するに、『資本論』は、実態を掘り下げていったわけで、理論が先にあったわけではない……と書くとちょっと誤解を招くかもしれないが、でも、必ずしも間違いというわけでもあるまい。スミスまで遡ることを強調していたのは高島善哉であったかと記憶する(『マルクスとヴェーバー』)。それはそれで一つの途だが、複数あるであろう『資本論』へと至る途を、追体験しようという試みが重要なのかもしれない。

 見田石介さんの名著、『資本論の方法』(最初は弘文堂、その後大月書店発行の著作集に収録)の復刊なんて話が出てくると面白いとも思うのだが。
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by todoroki-tetsu | 2008-12-21 01:26 | 業界 | Comments(0)

河上肇『貧乏物語』

 どうせだったら現代語訳にした方がいいのでは? いや、漱石だって現代仮名遣いにすれば十分通じるではないか、などと入荷した本を前にしばし考え込んでしまった。河上肇の『貧乏物語』である。

 まだ読み終えていないので詳細は避けるが、少なくとも岩波文庫版よりは字も大きいし読みやすく、手に取りやすくなっているのは確かではある。期せずして湯浅誠さんの『反貧困』が大佛次郎論壇賞を受賞した直後でもあり、タイムリーでもある。ちょっと仕掛けてみようと思う。

 序の中には、孔子の「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」を引いた上で記した、こんな文章がある。

 「一部の経済学者は、いわゆる物質的文明の進歩――富の増殖――のみをもって文明の尺度となすの傾きあれども、余はできうるだけ多数の人が道を聞くに至ることをもってのみ、真実の意味における文明の進歩と信ずる」
(P.5)

 社会科学者、経世済民の学たる経済学者のこの気概に、今なお学ぶべきことは多いだろう。石川啄木から丹念に大正をつなげてみてもよいかもしれない。上原專祿『大正研究』なども興味あるところである。

 『イギリスにおける労働者階級の状態』なんかも、そのうち新訳で出たりするのだろうか……。新しけりゃいいってもんでもないけれども、話題になってまっとうに見直されるのであれば、それはそれで歓迎すべきことではある。
 
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by todoroki-tetsu | 2008-12-18 00:35 | 業界 | Comments(0)

本田由紀さんと書評

 気づくのがずいぶんと遅くなってしまったが、本田由紀さんがウェブ上での書評を再開されていた。

 再開一発目は『キャリアラダーとは何か』。出た時から気にはなっていたがまだ読んでいない本のひとつ。内容も気にかかっていたが、阿部真大さんや居郷至伸さんなど、『若者の労働と生活世界』でお見かけした方々が訳されているということでも気になっていた。なるほど、訳者の姿もずいぶんと前面に出ているようでさらに興味がわく。

 いわゆる実証研究といおうか、調査畑の社会学者で「売れる」のは今のところ本田由紀さんがダントツ。ガチガチの専門書であれ入門書であれ、こうした場でどんどん本田さんが実証研究・調査系統の社会学の書籍を紹介していってくださるとありがたい。同じ社会学でも理論系に比べて地味に見えてしまう分、そうした取り組みは大歓迎であるし、自分も店頭で何が出来るかを考えてみたい。

 さらなるご活躍を期待しています。
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by todoroki-tetsu | 2008-11-14 07:10 | 業界 | Comments(0)

「独立系硬派雑誌」について

 昨日11/2(日)の「朝日」にて、竹信三恵子さんが「独立系硬派雑誌」というくくりかたで「ロスジェネ」「POSSE」「フリーターズフリー」などを紹介されている。シノドスなどにも言及されており、幅広くフォローしている印象を受けた。

 本屋としてはこの間実感している動向ではあるので、なるほどと思いつつ読みながらふと考えた。

 発行されている皆さん、採算は取れているのだろうか?

 自分の店では取次扱いのものはもちろん扱っているし、「POSSE」や「オルタ」は直扱いをさせて頂いている。

 細かい数字はここでは記さないが、それなりに売れてはいる。が、莫大な数というほどではない。この点、「思想地図」はちょっと別格な売れ方であった。

 もちろん、自分の店以外でも他の経路があるのだろうし、またいろんなつながりやイベントなどで「手売り」したりすることもあるのではないかと思う。が、硬い言い方をすれば、諸々の「イデオロギー」「主張」「意見」「考え方」が「形」≒「商品」となって立ち現れるのが本屋の棚。こうしたところでどう見せるか、どう売るか、と、本屋の仕事としては考えなくちゃいけない。

 「独立系硬派雑誌」を本屋で目立たせる際のメリット、一言でいえば「商材の多様化」ということに尽きる。多様な主張をしっかり見せることで顧客の選択肢を増やすことができるし、それが店頭の活性化につながる。集客効果は少なくない(もちろん店にもよると思うので一概には言えない)。

 ただ一方で、販売絶対数はやはり少ないのであって、集客機能を果たしてくれていることに対して「ご恩返し」をしなくちゃ、という気持ちだけはある。今のところ思いつくのは、雑誌そのものを売るだけでなく、発行/寄稿している著者や団体の著作もあわせてしっかり売る、ということくらいだろうか。

 雑誌発行者の方々からすれば、書店は数ある販売チャネルのひとつにすぎないだろう。そして、正直なところ、こちらも利益を多少なりとも得たい。雑誌発行者方々から見て、「本屋に卸すと直接販売よりは利益は落ちるが、それに見合うだけの効果はある」と思ってもらえるようなパターンを作り出せないかな、と考えている。色々なことを試してみたい。
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by todoroki-tetsu | 2008-11-03 09:29 | 業界 | Comments(0)

「現代の生活における貧困の克服」によせて(上田耕一郎さんを追悼す)

 上田耕一郎さんが昨日亡くなった。81歳。お若いとは決して言えない年齢だとは思うが、吉本隆明さんが84歳の今も現役であることを考えると、まだもうしばらくはいて欲しかった、と思う。

 学生時代に何度か上田さんの話を聞く機会があった。えらく元気な人だなあ、というのが最初の印象。当時はまだ参院議員であったと思うが、どうも上田さんのお話は他の共産党政治家/活動家とちょっと違う気がした。どこがどうとは言えないが、それがいわゆる「上田節」だったのだろう。

 大衆社会論争における上田さんの位置というか役割については、正直なところよく分からない。後藤道夫さんの力作『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』でも言及されているが、時代状況がいまひとつ感覚として掴めないでいる。が、戦後日本政治史なんかをやっている先輩などからは「上田耕一郎という人は切れ者だ」というような話を聞いたこともあり、へぇーと思ったものである。

 「現代の生活における貧困の克服」(初出は1963年、岩波講座「現代」第一巻「現代の問題性」。その後大月書店『先進国革命の理論』に収録)や、さらに遡って『マルクス主義と現代イデオロギー』、『戦後革命論争史』などを読んだのはずっと後のことであった。

 いずれも時代状況を想像するのに四苦八苦した記憶がある。が、『戦後革命論争史』からは、とにかく今ある条件や可能性を最大限に生かしていこう、という上田さんの覚悟というか意気込みが感じられた。連帯というか共闘というか、そういったものへの執着。

 僕がもっとも感銘し、今でも繰り返し読み返すのは「現代の生活における貧困の克服」。その書き出しはこうである。

 「『生活』という使いなれた言葉から、私たちはまず何を思い浮かべるだろうか。それは第一に、いっさいの人間的諸活動を個人の場で切り取ったもの、すなわち、一人ひとりの人間にとっての一個の小宇宙を意味している。人間の尊厳も栄光も、その創造性も未来もすべて生活の中にはらまれ、はぐくまれる」(大月書店版、P.153)


 ここだけだとただの「良いこと」あるいは「当たり前のこと」を言っているにすぎない。しかし、運動の観点から捉えた時、この認識が冒頭に来ている意味の重さが分かる。

 
「私たちの生活意識における、歴史的変革の担い手としての自覚こそが、社会的変革の内容の、小さくはあるが決定的な一分子となる。その自覚の形成はあくまで個性的である。いっさいの画一的な紋切型を排して、個性的な自覚の過程を歴史的主体の形成の本質的、根源的な要素として尊重すること、生活上の要求を追求するすべての運動は、このことをなによりもまず重視しなければなるまい」(同、P.161)

 共産党きっての理論家が、かかる認識を示していたこと。実態として実現されていたのかどうかは分からない。なかなかうまくいかないことが多分にあったのではないか、と想像する。が、少なくともこうした認識があったということは知っておいてよいだろう。今、漠然と「運動が盛り上がっている」的な雰囲気がある中で、これは当たり前と言えば当たり前だが、極めて今日的な問題と言いうる。

 上田さんは文中で「綱領的要求」という表現を用いている。当時の状況なり上田さんの立場からすれば、これは一定の説得力を持ち得たのかもしれない。が、今はそうではないだろう。別冊「ロスジェネ」所収のシンポジウムが示しているように――ということは現時点での批評の到達点でもある――、そう簡単に希望は語れないし、こうすりゃみんなが幸せに、なんて処方箋もそうそう書けない。

 しかし、だからこそ、思考なり議論なり運動なりの作法というか倫理が必要なのであって、それをやろうとしているのが「ロスジェネ」であり「フリーターズフリー」(もうじき第2号が出るそうだ)なんだと思う。

 読み違えているのかもしれないが、上田さんはどうも「綱領(≒結論)先にありき」というような態度――その世代の、あるいは共産党の理論家/活動家の中では、という限定つきだが――をとらなかったタイプではなかったか、という気がしている。ある問題があり、それを個別具体的に解きほぐそうとする中で綱領に到達する、というような態度に徹していたのではないだろうか、少なくともいわゆる「大衆運動」においては。
 
 上田さんは共産党の幹部で長くありながらちょっとはみ出たところというか、型にはまらないところがあった人だと思う。上田さんのやってきたことから学びうること、学ぶべきことは――もちろん批判も含めて――少なくない。

 まっとうな上田耕一郎評価/批評が出てくること。これが現在の運動を考える上でも大いに手がかりになると思う。
 
 ご冥福をお祈りいたします。

【追記】
 遅く起きた今朝、新聞で訃報を知り、即机に向かって記したのだけれども、先ほど、浅尾大輔さんが「日本共産党の認識論――上田耕一郎氏へのオマージュ」という記事をすでに昨日記されていることを知った。

 浅尾さんが「現代の生活における貧困の克服」を深く受け止めていらっしゃること、我が意を得たりというのは不遜にすぎるだろうが、心強いことだ、とは言っておきたい。「ロスジェネ」と結びつけた連想は、あながち間違いではなかったか。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-31 12:56 | 業界 | Comments(0)

雨宮処凛×中西新太郎「生きづらさと1995年」

 『1995年』から、雨宮さんと中西さんの対談について。

 当時フリーターだった雨宮さんの体験談は生々しく、「時代の証言」的な要素が強い。相手が中西さんであることで、個別具体的な経験がより広い文脈が位置づけなおされているように読めた。

 後半に、中島岳志さんと栗田隆子さんが少しだけ参加されている。このあたりはさらにエンジンがフル回転していて面白い。『終わりなき日常を生きろ』について述べている箇所(P.69-74)は、唸る。

 結論的に言ってしまうと、この『1995年』全体が、ひとつの宮台真司さん批判として読めると思う。未着手だが、時期をほぼ同じくして上梓された鈴木謙介さんの『サブカル・ニッポンの新自由主義』とあわせて考えてみたい。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-17 14:21 | 業界 | Comments(0)

中西新太郎「1995年から始まる」(『1995年』)

 『1995年』の序論、中西新太郎さんの「1995年から始まる」について。

 中西さんの論考はいろんな要素をぎっちりと圧縮したような印象を受けるのだが、この序論も解凍するととてつもなく大きく――通時的にも共時的にも――なりそうなものである。

 もちろん年長であることも大いに影響はしているのかもしれないが、「1995年」に至る流れを簡潔に整理した上で、では、何が問題なのか? を指し示す。この序論がその後に続くどの対談にも基調となっており、個別具体的な話題ともシンクロして絶妙な読後感を生み出す。

 
「95年を捉える各論者の視角は、それぞれの違いが当然あるとはいえ、文化的個体化作用を、ともすれば、単純に解放的契機とみなしてきた前時代のエートスとはいずれも無縁のように思える。『ロスト・ジェネレーション』の旗手と言ってよい語り手たちのそうした姿勢には、新自由主義政治と消費社会の抑圧作用とが結びついたポスト95年の歴史状況が正確に映されている。『ロスト・ジェネレーション』が効果的就労対策を怠った政策による一過性の犠牲者ではないように、ポスト95年の歴史状況もそれ以前の歴史軌道からの一時的逸脱ではない。『自分さがし』の時代から『生きづらさ』の時代への転換こそが本質的であり、転換への着目ぬきに両者を無自覚につないだまま『生きづらさ』をあげつらうと誤読に陥る。ロスト・ジェネレーションが尖端に位置してぶつかっている困難と問題群とは、歴史の隘路に迷い込んだ結果遭遇するそれではなく、新たな歴史ステージの『正面』に立ち塞がる問題である」(P.29)


 「ロスト・ジェネレーション」といってもいろいろいるわけで、そうひとくくりにすることは出来ないのは当然なのだが――しかし、それは例えば杉田俊介さんの「自立と倫理」(『無能力批評』)、大澤信亮さんの「柄谷行人論」(「新潮」2008年11月号)といった試み、すなわち、「他者」と向き合うことについての極めて根源的な思考を通じて、ひょっとすると乗り越えられるかもしれない(もちろん、道は恐ろしく険しいに違いない)、と思わせるものでもある。この点は別の機会に少し触れてみたい――、問題設定を明確に示している点で捨てがたい記述である。雨宮処凛さんと萱野稔人さんの『「生きづらさ」について』の第四章「『超不安定』時代を生き抜く」にも通じるものであろう。

 中西さんらしく様々な作品への言及があるのだけれども、それらを評しつつ、「ただ現実を写すことも夢見ることも許さない身動きのとれなさ」(P.35)を描き出した上で、こう締めくくる。

 「過去と同じように夢は見ないが、そのようにして夢見る新たな試みをやめないこと、そうした仕方で『95年から始まる』現実に向き合うこと、つまり、『95年から始める』こと――それが、構造改革時代を生きる普通人ordinary personに課せられた歴史的責任ではないだろうか」(P.36)


 「夢」という言葉を、正面から受け止めつつ、続く対談についても思うところを触れていければ、と思う。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-16 00:41 | 業界 | Comments(0)

吉本隆明「転向論」

 吉本隆明さんの『マチウ書試論 転向論』。しばらく前に読み終えていたのだが、読後感をどう言葉にできるか、と考えていた。

 この中でやっぱり面白かったのは、「マチウ書試論」と「転向論」。ひとまず「転向論」の印象を記しておきたい。

 これが約50年前に提出された当時の情況を僕はよく知らないが、極めてまっとうなことを指摘している、というように感じた。要するに、現実なり大衆なりというものに、ほんとうに向き合って闘い切れたのか? ということを言っているのだろう、と。

 「日本のインテリゲンチャがたどる思考の変換の経路は、典型的に二つある」(P.300)と吉本さんは言う。

 「第一は、知識を身につけ、論理的な思考法をいくらかでも手に入れてくるにつれて、日本の社会が、理にあわないつまらぬものに視えてくる。そのため、思想の対象として、日本の社会の実体は、まないたにのぼらなくなってくるのである。こういう理にあわないようにみえる日本の社会の劣悪な条件を、思考の上で離脱して、それが、インターナショナリズムと接合する所以であると錯誤するのである」(P.300)

 「理にあわぬ、つまらない現実としかみえない日本の社会の実体のひとつひとつにくりかえしたたきつけて検証されなかった思想が、ひとたび日本的現実のそれなりに自足した優性におぼれたときこそ無惨であった」(P.301-302)


 では、もうひとつの典型はどうだろうか。

 「……第二の典型的な思考過程は、広い意味での近代主義(モデルニスムス)である。日本的モデルニスムスの特徴は、思考自体が、けっして、社会の現実構造と対応させられずに、論理自体のオートマチスムスによって自己完結することである」(P.303)

 「日本的モデルニスムスにとっては、自己の論理を保つに都合のよい生活条件さえあれば、はじめから、転向する必要はない。なぜならば、自分は、原則に固執すればよいのであって、天動説のように転向するのは、現実社会の方だからである」(P.304)
 
 
 さらに吉本さんは続ける。

 「何れをよしとするか、という問いはそれ自体、無意味なのだ。そこに共通しているのは、日本の社会構造の総体によって対応づけられない思想の悲劇である」(P.307)


 あえて具体的な人名を省いて引用してみたのだけれども、どちらも、目を凝らすと今でも見られるようなことではないか、と思う。

 じゃあ、第三の典型はないのか? 吉本さんによれば、それは中野重治に見いだされる。

 
「……中野は転向によって、はじめて具体的なヴィジョンを目の前にすえることができたその錯綜した封建的土壌と対峙することを、ふたたびこころに決めたのである」(P.313)


 いわば、敗北と向き合う、といったイメージだろうか。

 ある種の「運動」の盛り上がりみたいなことがいろんな文脈で語られる現在において、さまざまな言説をどう見極めるか、の手がかりになり得る評論だと思う。
 
 
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by todoroki-tetsu | 2008-10-11 01:14 | 業界 | Comments(0)

『1995年』(大月書店)によせて

 ド直球の本でありながら、その故にか自分なりの考えというか、スタンスを定めるのに恐ろしく時間がかかってしまった。『1995年 未了の問題圏』である。

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 この1~2年の間で、いわゆる若手の論客といった皆さんに注目が集まり、それが多少の波はありつつも継続しているように感じている。

 雨宮処凛さんの『生きさせろ!』を起点にするのが妥当なのかは分からない。が、この出版当初(2007年3月)ではなく、日本ジャーナリスト会議賞受賞(2007年7月)のころから、「なんだか熱くなってきたな」というのが店頭での実感としては、ある。

 その間の5月には、本田由紀さんたちによる名論文集『若者の労働と生活世界』があった。これは、少なくとも10年後もなお、参照項として生命力を失わないだろう。同時代を併走しながら、かつ、問題提起の幅広さにおいてさまざまな議論の起点をなすだろう――それは、岩波の講座「現代」第一巻、『現代の問題性』(1963年発行)所収の論文群(例えば、上原專祿「現代認識の問題性」、上田耕一郎「現代の生活における貧困の克服」)がもつ生命力、あるいは藤田勇さんの編による『権威的秩序と国家』に結集したそうそうたる論者のその後の活躍(渡辺治さんや後藤道夫さんといった「講座現代日本」に連なる方々など)などを、想起させるものである――。

 そして、2007年の秋には赤木智弘さんの『若者を見殺しにする国』。今年に入ってからは「ロスジェネ」。

 若い論者、ということで言えば、鈴木謙介さんもこの間で急速に、「売れる」著者となった。『ウェブ社会の思想』は切らしちゃ恥ずかしい定番書である。本屋の実感として言えば、文化系トークラジオLifeは着実に現在の主に10代後半~20代前半の人間が何かを考える際の参照項となった、と思う。批判ももちろんあるだろうけれども、1975年生まれの僕の世代が、好き嫌いに関係なく、どこかしら宮台真司さんや小林よしのりさんといった年長の論者の言説に影響を受けたのと同じような位置として、ということ。標準でも基準でもないかもしれないけれども、「手がかり」というようなもの――もちろん、ラジオというメディアの特性と言おうか、「場」という性格が強いため並列には考えられないかもしれないが――。こうしたことも、この1年弱ぐらいのことであろう。

 『思想地図』へと至る流れ、また『ゼロ年代の想像力』、『お前が若者を語るな!』なども、本屋としては動きに注目したいし、またすべきところであるだろう、と思う。もちろん、秋葉原の事件も考えないわけにはいかない。まだ自分なりのイメージがあんまり出来ていないのだが。

 つまり、あらっぽく言うと、いわゆる70年代(の特に後半の)生まれというか、現在の30歳前後くらいの論客(当事者も研究者も批評家も含む)がドッと出てきて、ある程度その位置を確立してきたのがこの1年くらいのこととしてあって、本屋の実感として、「若い論者」「若い当事者」みたいな打ち出し――POPの売り文句、とイメージしてみてください――で売ることが出来たし、また、それが分かりやすい打ち出しとして顧客にウケた、という側面があった。それは同世代に対しても有効にアピールしたであろうし、団塊世代までを含む年長の顧客にも「最近の若い人は何を考えているんだろう?」みたいな感覚で手にとってくれるような印象も少なくなかった。

 でも、もう「若い論者」みたいな打ち出しは通用しない。より主張というか、内容に即した打ち出しをやっていかなくてはならない。ある意味でより本質的な売り出し・打ち出しができるということでもあり、だからこそ、どう手に取ってもらえるか、を一層考えなくてはならなくなった、ということなのだ。

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 前置きが長くなった。そういう状況の中で上梓された、『1995年』である。これが1年前なら、湯浅誠さんはちょっと違うとして、「団塊世代」の中西新太郎さん×「団塊ジュニア世代」の雨宮処凛さん・中島岳志さん・栗田隆子さん・杉田俊介さん、みたいな打ち出しができたし、それが妥当であったと思う。

 しかし、上述の通り、そうしたアプローチは、さして有効ではない。きっと編者としても湯浅誠さんを交えたところに、いわゆる「若者本」ではない、といった思いがあったのではないかとも推測する。

 要するに、売り手の力量がものすごく試される本なのだ。そう思って、あれこれPOPだの並べ方だのを考える一方で、とにもかくにも手にとって見てほしい、そうすれば、ひきこまれる何かが絶対にあるはずだ、とも思う。

 例えば、冒頭の雨宮処凛さんの前書エッセイ、「ようこそ! 『バブル崩壊後の焼け野原』へ」。僕は雨宮さんとは学年は違えど年は同じなので、ある種の懐かしさを抱きながら読みはじめたのだけれども、最後のパラグラフでグッときた。

 「世界」2007年11月号で発表された、「ロストジェネレーションの仕組まれた生きづらさ」の加筆版とのこと。改めて「世界」を読み返したが、断然、『1995年』所収版の方が、いい。あたかも掌編小説のごとき余韻。素晴らしい。

 このエッセイのわずか1ページほどのしめくくりが、「1995年」――「未了の問題圏」というサブタイトルがまた秀逸だ――というテーマを、単なる回顧でもなく、歴史を「後知恵」でみるのでもなく、普遍性をもって問題化する、そうした手がかりを指し示しているように思う。単なる団塊ジュニア世代の「同窓会」などでは決してなく、より若い世代にも、より年長の世代にも共通する普遍的な問題として剔出される「同時代」として。

 「1995年という年に何の特権性も感じません」という大澤信亮さんの言葉(「オルタ」9-10月号での湯浅誠さんとの対談から。p.15)と合わせて、じっくり考えてみたい。


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 このテーマをどう見せることができるか。どうやって読者に届けるか。しんどいが、やりがいのあることである。 
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by todoroki-tetsu | 2008-10-10 17:08 | 業界 | Comments(0)