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就職内定率

 大学生の10/1現在の就職内定率が、57.6%であるという。この数字がどういうことなのか。大変だろうなとはもちろん思う。でも、その大変さはどういうものだろう。自分が就職活動をしていた98年の数字と比較してみる。当時も氷河期と言われてはいたのだが……と思って調べてみると、73.6%だった。


 就職内定率、というのが少しまだピンとこないのだが――学生時代にはよく「(有効)求人倍率」といったような言葉を耳にしていた気がする――、しかし、この数字だけ見る限り、「俺の時よりも相当に大変だぞ」という気がしてくる。

 
 98年に就職活動をやっていたということは99年4月から働き始めたということなのだけれど、この時は就職協定が廃止されてまだ2年目だった。就職協定のことを学生アルバイトさんに話すとみな一様に、驚く。就職活動は大学4年の春(5/1だったか?)からだったし、秋(11/1)には終わった。実際はどうか知らないが、一応そうなっていたのだ。


 協定廃止2年目の僕の頃は、たしか早いところで99年新卒対象の一次試験や説明会などが98年の3月くらいにあったんじゃなかったかな、と記憶する。間違っているかもしれない。が、少なくとも4月は説明会だの何だので忙しかったのは間違いない。おかげで新年度最初のゼミに我々上級生(僕は5年生だった……)が皆出られず、ゼミ新入生であるところの3年生を迎える大事な時になんだ! と先生にお叱りを頂いたことを覚えている。早い連中は6月になる前か、なってすぐくらいにもう内定が出ていたのではないか。

 
 僕は7月の半ばくらいに内定が出た。遅いほうであった、仲間内の男子学生の中では。それまで別段思ってもいなかったが、人間不安になると考えがすさむ。「俺は1年留年したとはいえそこそこの学校なのに」(!)とか、「なんで男なのに決まらないんだ」(!)とか、そういうことを考えたりして、またそうしたことを考える自分が嫌になるという自家中毒に陥ったりもして。そのくせ、自分が内定を取ったあとに出かけた時、まだリクルートスーツで歩いている女子学生を見て「大変だな」と思ったことを覚えている。自分がリクルートスーツを着ていた時には目に入らなかったのだが。多分、自分は自分の身を守るためなら何でもやるタイプなんだろうな、と思った。だからそんな目に合わないような平和な世の中がいいな、と身勝手なことを思ったし、今でもそう思っている節がある。


 もうひとつ嫌だったこと。PHSを持っていたのだが、交通費がかさみにかさんで、手放した。つまり、電話は部屋の固定しかない。面接までいった会社がいくつかあったのだが、その結果は電話で来る。部屋にいても落ち着かない。電話が鳴った、と思ったら、院進学に向け勉強中の知人からだった。「○○君は内定出たらしいけど、どうなの」、と。知人は何も僕を焦らせようとしたのではない。本気で心配してくれていた。しかし、僕にはそれを受け止めるだけの余裕はなかった。「どんどん先を越されている……」という思いが先行した。かといって、ここでキレたらそれこそ人としておしまいだろう、でも……となんだか訳が分からなくなって、電話が終わった後もどよんとした気持ちになった。人を信用できない自分が嫌だったのかもしれない。


 自分というものを基本的には信用していないのはこのあたりでの経験によるように思う。


 うちの店にも学生アルバイトさんはいっぱいいて、なんだか先輩面して「頑張れよ」みたいなことを思ったりもするが、口にはなるべくしないようにしているし、極力就職活動そのものの話題には触れないようにしている。下手なことを言って余計に苦しい思いはさせたくないから。


 就職活動がどうあるべきか、なんてことは申し訳ないが僕には分からない。が、自分の経験を「今となってはいい思い出だ」とは10年たった今でもまだ思えないのだ。恥ずかしい話だが、いまだに何ヶ月かにいっぺんは「就職先がない、どうしよう」と夢で見てうろたえて目が覚めるのだ。


 自分自身への警戒心を忘れない、という意味では確かによい経験ではあったけれども、それはあくまで僕個人のものであって、他者がそうであるとは決して言えない性質のものだ。


 どんなことにも、それをそれなりに乗り越えられる人はいるし、乗り越えられない人もいる。せめて、いろんな道ややり方があればいいのにとも思うのだが。
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by todoroki-tetsu | 2010-11-17 22:17 | 業界 | Comments(0)

上田耕一郎「現代の生活における貧困の克服」を再読する

 「座右の書」といってもいい。今までに何度となく読み直している論文である。湯浅誠さんの「社会運動と政権」(「世界」2010年6月号)を読んで、いわゆる社会運動とはなんぞやみたいな気持ちになって、また読み返した。twitterでのタグは #uedhnkn とした。


 この論文については、お亡くなりになった時にも記したことがある。この時記した感想は今回の再読においてもさして変わらない。


 その上で、いくつかを記しておきたい。


 ひとつめ。「綱領的要求」という用語をめぐって。要するにアメリカ帝国主義と日本独占資本を敵とする考え方だと言ってよかろう。たぶん、大まかには間違っていないだろうとは思う。


 何かの問題で具体的に困っていたり苦しんでいたり、そういう中で「敵は○○だ!」と宣言してくれる人がいるのは心強いことかもしれない。それによって解放されることは十分ありうるだろう。しかし、そうはどうしても思えない、という場合もある。一度は誰かが名指ししてくれたことを信じられたものの、何かのきっかけで離れることもあるだろう。


 宣言する人も、その「正しさ」だけを信じるようになってしまい、「本当に正しいのか」という検証をいつの間にか忘れることがあるかもしれない。


 あるいは、「敵」に気づいている人が「高次」にいて、気づいていない人が「低次」……そんな風に捉えられることがあるかもしれない。こうなると性質の悪い「信仰」だ。


 様々なブレやゆらぎやためらいが、ある。労働にも、認識にも、運動にも。それらをすべてひっくるめて「こみ」にしたものとして、「小宇宙」としての「生活」がある。


 そんなことを思いながら読むと、「綱領的要求」から再び「生活」に戻ってくる回路が見えてくるように思える。


このような全人民的連帯の統一した政治的・思想的自覚だけが、連帯の内部における部分的な利害対立を揚棄し、対立をかえって統一を強化する契機に転化し、困難を前進の原動力に転化することができ、結局は個々の要求をも最短距離で実現する全人民的運動を組織する道を見出すことができるのである(P.211)
 



 好意的に過ぎる解釈かもしれないが、しかし、単線ではない認識の、少なくとも手がかりはあるように思えてくる。「還相」?


 ふたつめ。時代のせいもあるだろうし、読んでいる僕の先入観でもあるのだろうが、イメージとしては工場労働者なのだ、書かれているのは。もちろん、それだけを上田さんは念頭に置いているわけではない。けれど、どうも、僕の中では工場労働者なのだ。寅さんが「職工」と呼びかける朝日印刷所の労働者であり、博であり、タコ社長である。


 何が言いたいか。


 こまっしゃくれた言い方をすれば「生産過程」のイメージと言えようか。もっとも、僕のイメージそのものが貧弱であるからえらそうなことは言えない。柄谷さんにかぶれたがごとく「流通過程」だの「交換」が云々などと持ち出すのは場違いでもあるだろう。ただ、現在の労働と生活のありようを深く捉える試みを重ねていかねばこの論文を今に活かしたことにはならないし、今の自分の日常を重ね合わせて読み変えていくこともある程度許されているのだろうとも思う。


 とはいえ、


 
長時間にわたる残業、乳幼児をあずけた夫婦共かせぎ、きわめて安い家庭内職などによってはじめて保たれている「高度」で「近代的」な消費生活の『ゆたかさ』について、われわれは何を語るべきであろうか(P.181)



 といった記述が到底1963年に記されたものと思えない今の状況ではある。が、上田さんは予言者ではないし、そう読んではならない。今の時代に読みなおす人間が「更新」していかねばならない。


 ここで生活調査などを丹念に読み込んでいれば格好がよいのだが(笑)、なかなかそうはうまくはいかないもので、最近読んだり読みはじめたりしているもので、何かしら「更新」の手がかりになりそうだなと思っているものを羅列してみる。


1.星野智幸さんの『俺俺
 
 昨日の「朝日」における中島岳志さんの書評にずいぶんとそそられて、読み始めたところなのでまだ何とも言えないが、えらいこと期待している。


2.タカさんの『ブルーカラー・ブルース
 
 タカさんが描くような現場は直接には知らないし、10年も正社員の椅子に座っているような僕がどうこう言うのも失礼な気もする。が、なんかこう、ざわっとくるものを感じる。


3.浅尾大輔さんの「かつて、ぶどう園で起きたこと」(『モンキービジネス』VOL.10所収)

 多くは記さない、というよりも、まだ記せない。浅尾さんの評論は、口調の柔らかさにいい意味でつられてしまうのだけれども、「渾身の一撃」に向けて全てを集中している。その姿は――ほめ言葉として僕は言いたいのだが――、レーニンを思わせる。その集中に見合うような読み方が出来ているか、自信がない。が、ここだけはどうしても引いておきたい。

 
 資本の総過程が恐慌を準備するなら、私たちの作家は、労働者の心が壊れていくさま――たとえば狂気、殺人と自殺の物語をますます描くことになるだろう。あるいは労働力の再生産過程――職場・学校、家族から排除された「フリーター」「ひきこもり」「障がい者」、もしかしたら「自分はブスだから生きる価値なんてない」と思い悩む小学生を主人公にすえた物語と向き合っていくかもしれない。
 とどのつまり、私たちの文学の運命は、資本――カネと暴力に破れていく人間の終わりを描くのか、それとも、資本に反逆し、「嘘」をつき返し、唾を吐くような人間たちの物語をいかに再構築するのかという、もはやそのどちらかの選択しかない。(P.280)


 リアリズム、とはこういう認識のことを言うのだろう。


 こうした豊富な同時代の手がかりを過去の到達と縄をなうがごとく束ねていくのは、「読者」に他ならぬ。
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by todoroki-tetsu | 2010-07-20 00:29 | 業界 | Comments(2)

「怒り」をめぐって

 「原爆批評」の続きがなかなか書けずにうろうろしている。つながるようでいて、つながらないような、そんなことを考えたので少し。

 雨宮処凛さんと小森陽一さんの対談『生きさせる思想』を、興味深く読んだ。

 日常を戦場と捉える雨宮さんの言葉は常に共感するのだが、この中でそうした文脈とは別に首肯したのは、「無条件の生存の肯定」(「生きさせろ!」)に触れた後に続く、

 「おそらくまず自分を肯定できないと怒れないと思います。自分はダメな人間だと思っていると、何をされてもしかたないって諦めると思うんですけど、自分を肯定できると、自分にされたことは不当だと思えるわけですよね。否定され続けている人に、怒れといっても無理な話で、肯定されて初めて怒れるようになる」(P.163)


 という雨宮さんの言葉である。
 
 「何らかの異議申し立てをするのが当然」→「なぜ他人は何も言わないのか?」と思ってしまう人にとっては極めて重要な指摘。もう一方で杉田俊介さんの「ロスジェネ芸術論(1) 生まれてこなかったことを夢見る」(「すばる」2008年8月号)と何かつなげてみたいのだけれども、今はひとまず措いておこう。

 僕自身は思うところがあれば異議申し立てをすべきだと思うけれども、それはそれで自分自身にとってもしんどいことでもあるので、自分も他人も追い詰めない程度にやるのがいいだろう、と思う。

1.タテ軸
 うまいこと言っているな、と思うのはやはり小田実さんであった。

 『世直しの倫理と論理 上』に、「くらしと『人間の都合』」というセクションがある。このおわりのほうで、小田さんはある消費者運動を提起する。

 今までの消費者運動が、カラー・テレビは十万円もして高すぎるから不買運動をする、というスタイルであったとすれば、これからは、カラー・テレビにさけるカネは二万円しかない、だから二万円でカラー・テレビを作れ、と要求していくのはどうか、と小田さんは言う。そして、こう続ける。

 「それはムチャや、と企業――全企業が言うでしょう。言うにきまっている。そんな勝手な値段をつけて。その悲鳴には、次のように答えてやればよろしい。何がムチャや。おまえのほうかて、これまで(ボクらに何の相談もしないで)勝手に十万円という値段をつけて来たやないか。(中略)おたくの都合は企業の都合や。ボクらのは、『人間の都合』や」(p.151 下線部は本文では傍点)


 「人間の都合」から「生きさせろ!」へ……カラー・テレビと、本当に今日と明日をしのぐための衣食住との話の落差に愕然とするが、仮に「人間の都合」を申し立てることが大きなものであったならば、今はどうなっていただろうか、とも思う。「自己肯定」と「怒り」の問題は、極めてスリリングである。

 2.ヨコ軸

 話を今に戻そう。とはいえ、「怒り」を抱くのはしんどいことでもある。一緒に怒れる仲間がいればいいだろうが――雨宮さんは「同志」という言葉を使っておられる――、それを見つけるのも結構難しいものだし、そもそも怒ってすらいない、という場合が少なくないように思える。

 浅尾大輔さんが雑誌「住民と自治」に記されていたエッセイの最終回(2009年6月号)は、極めて示唆に富む。

 派遣仲間に対して「私たち、もっと怒らなきゃ!」と言ったら、そんな風に言えるのはあなたに「余裕」があるからだ、と返された和子さん(仮名)の印象深いエピソードを引きながら、浅尾さんはこう続ける。

 「私は、支える側の一人として、ドアを叩く前の彼女たちの暮らしを、哲学を、交友関係を知らないということ、そして彼女がどんなふうに働いていたのかを見たことがないということ、そのことを忘れないでいたい」(P.41)


 これは、倫理なのか知恵なのか、思想なのか覚悟なのか、なんと表現してよいのやら分からないのだけれども、「知らないこと」「見たことがないということ」を「忘れないでいたい」……この言葉に、僕は衝撃を受ける。

 自己責任は言うに及ばず、社会がどうだ政治がどうだ、なんていう前にまずもって生身の人間として接する際にまずもって大事なのは、きっと、こういう慎ましさなのだろう。誤解を恐れず言えば、「正しい答え」を用意するのが第一義ではない場合がある、ということなのだろう。ちなみに、この最終回のエッセイのタイトルは「『怒り』の手前にあるものを探して」である。

 では、「怒り」の手前にあるもの、とはいったい何なのか? 小川朋さん編著の『派遣村、その後』は、「手前にあるもの」を、当事者に即して捉えるべく格闘しているように思える。

 真山さんという、派遣村の元「村民」を追った箇所(P.62-9)。どうにも要約出来ないのでぜひお読み頂きたいのだが、ネットカフェ暮らしで「人生の望みを九九パーセント達成した」と言う彼女を追ったルポの最後は、こう締めくくられる。

 「満足できる人生に欠けている、あと一パーセントのなかには何があるのか。しばらく考えたあと、真山は『それはわからないなあ』と答えた」(P.69)


 そう、「わからない」のだ。「わからない」ことをそれとして受けとめる、否、受けとめ続けることが必要なのだろう。仮に一パーセントがわかったとしても、それで何がどうなるわけでもないのかもしれないし、ひょっとするとその一パーセントが、雨宮さんのいう「自己肯定」だったり、和子さんが仲間に言われたところの「余裕」になりうるかもしれないが、それすらも、「わからない」。
 
 「怒り」――社会的な、と添えておこうか――が、「自己肯定」や「余裕」を担保にせざるを得ないとしたら? という問いを立てられるのかもしれない。それほど、社会的な「怒り」をめぐる情況は深刻だと思う。同時代の文学者、ライター、批評家、実践家、研究者、そして当事者の言葉を、注意深く追っていきたい。

 
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by todoroki-tetsu | 2009-11-12 04:44 | 業界 | Comments(0)

高原基彰『現代日本の転機』読了

 twitterでつぶやいてみたシリーズ第二弾、いろいろ迷って高原基彰さんの『現代日本の転機』にした。タグは#ISBN9784140911402としてみたが、どうも長い。難しいものだ。

 さて、部分的な感想はtwitterに譲るが、全体的な読後感を。そう指摘されることはあまり望まれないかもしれないけれども、この世代(1976年生まれ)ならでは、という感触はある。目の前で「右バージョンの反近代主義」が崩壊してく過程を見てきた感覚、といえばいいだろうか(もっと若い世代はいろんなものが崩壊したガレキの山を見ているのかもしれないが、そこはまだよく分からない)。

 しかし、記述はより普遍的だ。テキストのお手本のごとくかつての議論は簡潔に整理されており、幅広い世代・立場にとって交通整理にもってこいの一冊となっている。定番書として定着させたいし、学生さんはもちろんのこと、ビジネスパーソンに広げられないか、模索したい。これは書店員としてチャレンジせねばならぬ課題だ。

 高原さんに限らず、この前後の世代の書き手は数年前なら「若手論客」としてくくられただろうけれども、今はそのくくりは通じない。「ゼロ年代」というくくりは、書店店頭ではすでに陳腐なものとなった。具体的に何が言えるのか? 特により若い世代に対して、何を? それが問われているように思えてならない。筑摩書房さんの双書ZEROの眼目もここにあるのだろう(同時に、商売人としてみれば「単行本の新書化」傾向の巻き返し、という文脈もあると考えている。それはまた機会があれば記す)。高原さんは見事にそれをなしたと思う。

 もちろん、これからも仕事を重ねていかれるだろう。どんな方向に向かわれるのかは分からないけれども、大いに期待したい。
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by todoroki-tetsu | 2009-10-05 23:55 | 業界 | Comments(0)

掬いと救い――小熊英二『1968』読了

 小熊英二さんの『1968』、、を読み終えて少し時間がたった。

 自分のtwitterを読書メモがわりにしたのだが、この件は別稿で記してみることにするとして、読後思うところをいくつか。

 僕は小熊さんの熱心な読者ではないが、この本については前々から出る出るといわれて延びていたのだったし、まあ、ネタで一応は買っておこう、という程度のものであった。そのうち気が向いたら読めばいいな、と。で、パラパラとめくり始めたら結構おもしろかったのでわりあいに持続して読み進めることができた。

 読みながら考えたことを整理すると、

1)では、自分だったらどうする/したのか?

2)「言葉」の力について

3)「問い」を継承するということ

 の3つになるだろうか。

 1)なら、セクトに入る/入らないだけでなく、その選択をした後も何をどう引き受けて生きていこうとするのか、という問題に置き換えられるだろうか。運動の高揚と持続の難しさ、就職を前にしての戦線離脱あるいは何かを引き受けようとする覚悟、政治運動としての判断、新宿での暴動、内ゲバ、保身……目をそむけたくなるような行為もあれば、素晴らしい行為もある。ある情況にさらされた人間の、ありとあらゆる「型」が描かれているように感じられた。読んでいるお前はどうなんだ? と問われている、という感覚がずっとつきまとった。ある意味で極めて個人的な読み方ではある(どんな読み方もそうだといえばそうなのかもしれないけれど)。

 2)は、「現代的不幸」をめぐってである。このキーワードは本文中に繰り返し出てくる。が、問題は「現代的不幸」そのものではなく、これをうまく自分たちで「言葉」に出来なかった、ということにある。そして、その課題は継続しているんだ、というのが小熊さんの言わんとするところだろう。「言葉」とは世界や社会の切り取り方そのものなのだろうな、と漠然と思ったりするのだが、これは本当に大切なこと。ただ、現在の「批評」の中からきっと何かが見えてくるだろうな、とやや楽観視してはいる。同時代の批評家から、きっととてつもない言葉が繰り出されるに違いない、と信じている。

 3)「問い」の継承。丸山眞男的な物言いにどうしてもなってしまうけれども、「戦後民主主義批判」をした当時の学生たちのいわば外在的批判も批判されなければならないが、そうした当時の学生たちが発した問いも継承出来ていないのではないか、という思いを抱く。無知だと言われればそれまでだが、僕は社会運動は連合赤軍に行きつくとまでは言わないが、そういう危険性はある、と漠然と思っていた。あ、必ずしもそうではないんだな、自分自身も漠然とした思いだけでちゃんと「問い」を立てていなかった=思考停止になっていたのかな、と気づくことが出来た。

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 莫大な紙幅だが、必要な記述だったと、改めて思う。これでもかと繰り広げられる様々な行為をあらゆる側面から掬うことで、「あの時代」を、そして今なお継続する「現代的不幸」を、救おうとしている。学ぶところは多い。
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by todoroki-tetsu | 2009-09-06 23:44 | 業界 | Comments(0)

「オルタ」3・4月号、待望の入荷!

 きっと待たれていたんだろうな。遅れていた「オルタ」、3・4月号が数日前に入荷した。棚に出したらさっそく売れていく。 そういえば、「週刊文春」以外雑誌を基本的にはあまり読まない僕も、毎回必ず買っているなあ……・。

 杉田俊介さんの「性暴力と失語――村上春樹『風の歌を聴け』ノート」から読み始める。色々と考えさせられる。安易な読後感を記すのは戒めよう。もっと自分の中で寝かせて、じっくり考えたい。

 こういうところに目配りをする編集力というのはどえらいことだな、などと無責任に思う。

 巻末の編集後記を拝見すると、刊行の遅れをものすごく気にされているように思える。確かに、本屋としては、いや、読者としては、遅れるのはやはり気にはなる。けれども、「オルタ」さんの事情も一読者としてもよく承知はしているつもり。

 がんばってください。こちらもがんばって売ります。
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by todoroki-tetsu | 2009-05-23 23:10 | 業界 | Comments(0)

『ネトゲ廃人』が好調

 ファミコン以来家庭用ゲーム機にはほとんど触っていないので、ゲームの世界はなんとも分からない。本屋に勤めているおかげで、攻略本の売れ行きや新刊案内などでなんとなくどんなゲームがあるのかを知る程度。

 そんなわけで別段注意していなかったのだけれども、数日前から急にデータが上がってきたのが、『ネトゲ廃人』。えらいこと勢いがいい。性別問わず、30代前半以下のお客様が多いようだ。

 そこで気になったのが、お買い上げくださったのはどんな方なのか? ということ。身近にそういった人がいるのだろうか、あるいは自分自身に何か思うところがあるのだろうか? カウンタでしばし考え込んでしまった。こりゃちゃんと目を通さなきゃ。

 
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by todoroki-tetsu | 2009-05-07 16:03 | 業界 | Comments(0)

『21世紀の歴史』

 完全に読み間違えた。ジャック・アタリさんの『21世紀の歴史』である。

 この連休中にNHKで放送があることは知っていて、一応見越して多少の注文をしてはいたのだが、追いつかなかった。お客様に対して申し訳なく、こういう時が商人としても実に悔しい。

 お求めく・お問い合わせ下さったのは性別問わず中高年のお客様が相対的に多いが、若い人も少なくない。作品社さんの近刊案内によると、6月にも新邦訳が出るようだ。番組未見だが、どんなラインを組んでご提案できるか、考えてみたい。
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by todoroki-tetsu | 2009-05-07 10:10 | 業界 | Comments(0)

西城戸誠『抗いの条件』

 ジョン・ホロウェイさんの『権力を取らずに世界を変える』とか、高祖岩三郎さんの『新しいアナキズムの系譜学』だとか、廣瀬純さん×コレクティボ・シトゥアシオネスの『闘争のアサンブレア』だとか、今年に入ってもいわゆる運動系の本は色々と出ていて、内容はもちろん面白いし、そこそこに売れていたりもする。良いことだ。

 いろんな思想や運動をいかに使うか? という観点から見れば、これらはある種の「実用書」の趣がある。全然タイプは違うだろうけれども、宮台真司さんの『日本の難点』もちょっと似た雰囲気を感じる。

 こうしたテイストも大好きだが、西城戸誠さんの『抗いの条件』のような硬派な研究書も実に味わい深い。出版されたのは昨年秋と、本屋の店頭としては扱いに実に微妙なところではあって、派手なことはしなくてもいいからしっかりと陳列しておくこと、が今後ロングセラーになるかどうかの分かれ目と言えようか。

 西城戸さんは、この分野では稀有にして唯一といえるテキスト、『社会運動の社会学』の著者の一人。まだきっとここに集った方々の中からいろんな成果が出てくるだろう。ここで中心のテーマとなっている「運動文化」という視点、きっと実践の場でも有効に違いない。

 研究と実践との関係を考える上でも大いに刺激になる一冊。

 
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by todoroki-tetsu | 2009-04-28 23:36 | 業界 | Comments(0)

「大月書店通信」が面白い

 昨日に続き大月書店さんネタ。

 大月さんが年明けくらいからメルマガ配信を始めるというので、登録だけはしておいた。いろんな出版社さんでこういうことはやっていらっしゃるが、経験上、いわゆる大手さんよりも中小出版社さんの方が面白いものが多い気がする。

 とはいえ、まあ、情報は入手するにこしたことはないなあ、くらいの軽い気持ちでいた。が、山本三春さんと雨宮処凛さんとの往復書簡が連載されていて、これがめっぽう面白い。いや、大した分量ではないし、月一回発行ではあるけれども、こうした文章を無料で読むことができるのは実に得難いことだと思う。

 よく出版社さんの無料配布PR誌でいろんな人が書いているのを見かけるが、そうした機会が新人の発掘につながっているのだなぁ、と気が付いたのは雑賀恵子さんの『エコ・ロゴス』を読んだ時であった。こうしたメルマガも十分そんな場になりうるのではないかなあ、とふと思った。

 とにかく、一読の価値あり。単なる新刊・イベント案内ではないものを作るのは大変だと思うけれど、頑張っていただきたい。
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by todoroki-tetsu | 2009-04-22 23:38 | 業界 | Comments(2)