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「書店」を論ずることに関する走り書き

特定の本をどう置くかあるいは置かないか、そうした「目に見えること」を成り立たせているなにものかを考えたいが、あまり時間はない。走り書きたるゆえんである。

一日の労働時間を考えてみる。人と職場によって違うだろうが、営業時間にかかわらず、僕の場合は売場を担当する場合には14時間労働がメインである。休憩時間は規程上1時間15分だが、実際には当然そんなことはない。週に1回は1時間とれる日がある。ゼロが2日ほど、あとは20~30分くらい。さて、この中でなにがどうできるだろう?

休憩時間をつぶして何をしているか。店出しに追われるならまだよいが、カウンターに追われていると何もできない。それが接客業ではあるのだが、店出しは合間合間の仕事になる。どの本をどの本の隣に置くか、考えている暇はない。とにかくさばく。棚づくり。そんな言葉もあったなとたまに思い出す程度。

発注は自動発注システムに任せる。売れ筋は頼まなきゃ入らないが、頼んだところで減数されるばかり。それでも最低限はとあの手この手でやりくりする。逆を言えば、そうしたことに専念するために自動発注システムがある。いきおいシステム頼み、取次頼みになっていく。

事前に新刊発注ができる(時間的にも力関係的にも)書店がどの程度あるのか知らない。本部的なところがすべての権限を有している場合もあるだろうから何とも言えぬが、現場任せになっているとして、さて実際どの程度できるか。毎日100枚はファックスがくる。返しているのは一日平均すると10枚程度。多いのか少ないのか知らないが、かなり返しているほうだとは思う。システム頼み、取次頼みを少し脱しようとしてできるのはせいぜいこんなところ。

判断のできる人間はいきおい人件費が高くなる。なので、要らない。自分も含めて。決まったことを決まったとおりにやれるスタッフさえ用意していればいい。採算を考えると、そうなる。自分たちの色を出そうとして時間と手間をかけて、採算をとれる書店とそうでない書店は、確かにある。

書店員の仕事。とにかく新刊を早く出すこと。売れ筋は早く出すこと。これはどんな書店員でも棚を持てば最初に叩き込まれることのひとつのはず。そこに内容に応じてどうこうなどと教える/教わることがどれほどあるか知らない。僕は教わらなかったし、教えない。売れるか売れないかだけ。内容を判断するのは顧客である。我々の仕事はとにかく早く出すこと。それである日突然「お前のところはこんな本を置いているのか」「こんな本も置いていないのか」と言われても困惑するのみである。

「こんな本も置いていないのか」のほうがやりやすい。完全買い切りでなければ置けばいいだけだ。「こんな本を置いているのか」と言われても困惑するのみ。そう言えば、ここまであれこれ騒ぎになる前に、いわゆる新左翼系の雑誌のライターを名乗る人から一方的に取材をねじ込まれてあれこれ書かれたこともあった。なんともいえぬ苦い思いが積み重なると、書店員の感覚は鈍化していく。誰が味方で誰が敵か。見たいものしか見ない、とうそぶいてみるのはたやすいが、それを自分に折り返してさあどうなるか。

ある出版社の企画会議にて。震災から1年が経とうかというころ、いわゆる震災本のラッシュについて、苦言を呈した書店がいくつか。僕もその一人だが、ある書店員は「出版されるということは書き手がいて、読み手がいることを想定して版元さんが作ってくれたはず。たくさん出すぎて困るなどとは私はいえない」と。書店員の模範解答である。揶揄する気で言うのではない。しかし、これが模範解答だとすれば、どうか。何が見えてくる?











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by todoroki-tetsu | 2014-11-01 00:15 | 業界 | Comments(0)

選挙と書店員

 ずいぶんと慌ただしいことになってきた。都知事選が急に決まったかと思えば、次には総選挙。かねてから、景気回復のためには総選挙だろうと思ってきた。それで何が変わるかどうかは判らんが、少なくとも何かを変えるきっかけがないことには商環境は膠着するばかりだ。

 
 紙か電子か、などという問いにどこまで意味があるか知らない。ただ、顧客の求めるものを提供すること、それを維持できる仕組みを作ること、その仕組みでみんながそれなりにメシを食っていけること、そのことだけが重要だ。そうしてみると、いずれにしたって、コンテンツを購入する個人顧客のふところがあったかいものかお寒いものか、が書店員にとって極めて重要であることにかわりはない。


 その意味では、いま本を買って下さる顧客の生活がこれ以上しんどくならないように、本代を削らずに済むような社会になること。さらに言えば、いままで本には手が回らなかったという方が、「まあ、月に1冊くらい単行本を買ってもいいかな」と思ってもらえるような状況になることが、重要だ。もちろん商売人であるから、いかなる商環境であれ努力はするし、それが現状不足している部分があることも承知はしている。個人消費が上向けばおのずと本の売上が上がるなどと楽観はしていない。しかし、選挙の際にそのような思いを込めて個人として投票するのは問題あるまい。


 さて、その選挙である。選挙の結果を受けて諸般の経済状況が変化する、そこに期待するというのは何も書店に関わらず、小売全般に当てはまる問題であろう。書店の場合にはその業種特有の条件が付加される。つまり、選挙関連本というやつだ。近年政治がらみでえらいこと売れたので記憶しているのは、オバマ大統領の初当選の時だが、それもすぐさま大量の類書が出てお互いを食いつぶしてしまった。


 まあ、それはいい。問題は、いまだ。いまを、どうするか。


 経験則上、「政局」で本は売れない。もちろん、僕は僕の勤めている店のことしか実感としては判らないから、普遍化するつもりはない。しかし、誰と誰だどうくっつくだの離れただのというのは、本の売れ行きにほとんど影響しない。存外そんな評論家めいたものは売れやしない(関係者が組織的な購入をすることはあり得るだろうが)。その結果として何がどう変わるか、その具体的な手掛かりを指し示すものでない限り、たいしたセールスになりはしない。書店の棚を一時的に食いつぶしてはいおしまいだ。

 
 要するに、個別具体的な政策であり、論点である。これが明確にならないと、本は売れないのだ。この間のいわゆる「第三極」報道で気にかかるのは、そこだ。第三極の是非を云々するのは商売人の立場ではない。しかし、誰と誰がどうしたこうしたじゃあ本は売れないんだよなあ、という危機感だけは抱いている。


 投票まで4週間。単行本で新たなものが出ることは期待していないし、やっつけ仕事になるならやめたほうがいい。速報は新聞・雑誌がやればいい。ならば、いままで出ている本、いわゆる既刊本をうまく演出していくしかない。

 
 TPP、消費税、社会保障、原発、選挙制度、米軍(基地)、領土、民主主義、憲法、労働、生活保護……問題は無数にある。そして、これに関する本はすでにそれなりの数出てもいる。これをどう活かすかが、書店員の腕の見せどころだろう。政治家の顔がバーンと出るような本はとりあえずいい。「人」では売れないから。立場の違いはもちろんあっていい。というより、なきゃ始まらない。反対でも賛成でも、ガンガンに論争が起きなくちゃならない。

 
 しかし、反対のシンパ、賛成のシンパだけが買うような本は、よくもわるくも数が見えてしまうので面白くない。論争が発展していけば、相手の言うことを論破しようと違う意見の本も読むだろう。その問題に興味のない人でも、とにかく読んでみようかと手に取るだろう。


 以前、社会運動に関する本を念頭において、ある種のモデルを考えてみた。三人のモデルである。ここで記した考え方は、変更する必要が今もないと思っている。


 まっとうな議論が起きれば、本は売れる。そのようにして本が売れる社会は、少なくとも悪い社会ではない。これは、僕は確信だ。その確信をいかに形に出来るか。コーナーのためのブックリスト作りを、急ピッチで進めているところである。
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by todoroki-tetsu | 2012-11-19 09:38 | 業界 | Comments(0)

カネの話

 『葬式プランナーまどかのお弔いファイル』について記した折に少し触れておいた、書店員としての僕自身にかかわるカネの話を少ししておこうと思う。

 
 とはいえ、別段給料がどうだとか労働条件がどうだとか、それに比べてあいつは云々などといったそういう話ではない。僕が、会社員書店員としてもらう給料以外に、発生したことのある、あるいは発生しなかった、カネの話である。ごくわずかなことでもあるから、時系列は前後する。記憶があいまいなところもある。


 ある本の話。営業さんと縁があって、事前にゲラを拝読する機会があった。面白いと思ったし、実際によいセールスだったのだが、新刊が出てから少しして、「新聞広告を出すから、コメントを一筆書いてくれないか」とのお申し出を営業さんから頂いた。面白い本だと思ったし、その営業さんとの関係も悪いものではないので、引き受けた。そう長いコメントではないが、たしか二種類くらい渡した気がする。そのどちらかが無事(?)採用となった。

 
 その際、謝礼の話をしたかどうかは全く記憶にない。ないのだが、その営業さんは「気持ちです」と、図書カードをお持ちくださった。しかもいつの間にやら僕の勤めている店で購入されたようなのだ。ここまでされて無碍に断るわけにもいかんな、とありがたく頂戴した。中味はたしか¥3,000分だったと思う。結構な額だな、と思った。何かのお返しをした記憶はない。せいぜい礼状一本くらいを差し上げたかどうかだろう。たぶん5年くらい前の話。


 話ついでに記しておくと、ゲラを読む/読まないについては様々な考え方がある。郵便物の整理などをしていると、バンバン文芸担当者あてにゲラが送られてくるのがよく判る。こちらから望んだものもあるだろう。営業さんや編集さんと関係性が出来た、その中で送って頂けることもあるだろう。まったくの「送りつけ」という場合もあるだろう。ある地方店経験の長い僕の同僚――月にゲラも含めて50冊は読むという、人として半ばおかしい領域に到達している人間だ――は、「ゲラを読んでしっかりコメントを返せば、さすがに露骨な減数はないからね」と話してくれた。部数確保のためのゲラ読み。これは実態としては立派な業務となるだろう。しかし、それは自分の時間を削ってということになるのだが。

 
 閑話休題。ふたつめの体験。一時期、ある新聞社系のサイトに本の紹介をする羽目になったことがある。本社が絡んだ案件であったので、サイトで見える部分は勿論判るのだが、運営実態は全く不明であった。1年間でたしか5,6回は原稿を書いたのだが、少なくとも半分はボツになった。採用になった際の対価は図書カード¥1,000分であった。まあ、こんなもんなんだろうな、と思った。中途半端に本社が絡んでいてもいたので、僕にはかなりどうでもいい案件であった。断るほどの額でもないな、とも思った。


 続いて、帯にコメントを、とのお申し出を頂いたことがある。これも少し縁があり、ゲラまで拝見したかどうかは覚えていない。営業さんも新刊発売当初から随分と力を入れてくださった。じっさいこれもよいセールスだった。その二度目か三度目かの重版の時に頂いたお申し出であった。「弊社の規定ではこうしたことをお願いする時の謝礼は一万なのですが、よいでしょうか」と、その時はきっちりと最初にお話があった。「いやあ、いいですよそんな」と僕は即座に断った。それまでに経験していたのが上記の¥3,000だったから、いやに高いなあ、と物おじしたのもあるし、まあ、一度はお断りするのが礼儀だろうとも思った。そうしたらあっさり引き下がられてしまったのだけれども、別にそれはうらみにも何にも思っていない。その営業さんにはいろいろとお世話になっていたし、もうちょっと別のところにカネを回してほしいという思いもあった。まだその帯が生きているのかどうかは確認していない。


 人前でしゃべらなけりゃならない機会になったことが、3度ほどある。ひとつは業界内の内輪の集まりで、他書店の書店員とあるテーマについて話をすることとなった。時間にして僕の持ち分は30分程度であろうか。この時は別段謝礼の話もなくそんことを期待してもいなかった。その後どうやら懇親会的なものがあったようなのだが、そうした場が嫌いなので早々に立ち去った。あるいはそうした場に出れば、講演料代わりに一杯くらいおごってもらえたのかもしれないが、それもまた妙な話ではある。上原專祿の「学芸会」を気取る気などさらさらないが、よほどの関係性のある相手でなければ、自分がしゃべった後に気さくに話をするようなことは出来ない。慣れていないことだから、消尽してしまうのだ。


 だいたい、ふだんから付き合い酒は避けている。結果として「接待」を受けた格好になった飲食はもちろんあるが、関係性の薄い間柄では申し訳ないが気が乗らない。営業さんからすればそれも「仕事」なのだろうが、そんな「仕事」に付き合わせるのは心苦しくもある。もはや声もかけられなくなったが、かえってありがたい。

 
 話を戻そう。二度目の機会は、これもまた比較的業界内の集まりであったが、入場料を500円ばかりとる場であった。この時も他の書店の書店員(大先輩であって、普段なら僕のようなものは一緒には話せないような方であった)と一緒で、これもまた僕の持ち分は30分ほどであった。この時の講師料は¥5,000を提示され、確か明確に事前にお断りした記憶がある。だが、講演終了後には「今後のこともあるから」と改めてお話を受け、頂戴した。今後のことは、今のところ何もない。受け取ってよいものだったのかどうかは、いまだによく判らない。


 三度目の機会は、ある学校での講義であった。時間は90分。手取りで¥9,000。これは会社がらみの公式の依頼であった。別にぼくでなくてよい案件だったのだが、致し方ない。曲がりなりにも学生時代にあれこれやっていた身としては、学生相手にしゃべる機会で謝礼を頂くのはいかがなものかと思い、謝礼を固辞したい旨具申したのだが、上司に叱られた。もらってから考えるか、と思ったが、振込まれてからしばらくたつものの、何もしていない。我ながらだらしないものである。まあ、しょせんこんなものだ。


 事前にカネの話があった場合/なかった(か記憶していない)場合、固辞した場合と受け取った場合、あれこれある。実際にコメントなり話のために使った時間はほぼ業務時間外のことであり、それがいいのかわるいのか判らない。


 対価をもっと受け取りたいとも思わない。いや、もっと景気が良ければ「多少は俺にも分け前をくれよ」と思えるかもしれないが、そこはちょっとおいておこう。しかし最近、こうしたいわばこれも仕事と割り切る態度、縮小する業界が少しでも盛り上がるのならという気持ち――こうした思いで業務時間外のあれこれを「正当化」するのには「無理」があるのではないか、と思うようになってきた。自分の世代はそれでよいかもしれないが、実はこうした態度こそが、より若い世代にこの業界を、あるいは職場を、「キツイ」と思わせている要因になってはいないか、ということだ。


 若い世代から順番に書店業界を去っていくように思われる。それはそれで仕方のないことかもしれない。引きとめる根拠はない。けれど、もし自分のやり方を以て「あんなことをやってられるかよ」と思われたのであれば……。まあ、そんなこともよくあることではあるのだろうけれども。


 最後の最後にもうひとつだけ。ある座談会に参加することになったことがある。複数の書店員と著者を交えてのもの。その座談会はたしか単行本に収録されているはずだ。最初に謝礼の話はなかったし、終ってからもそうした話はなかった。献本が一冊送られてきたが、献本はほとんどの場合断っているのでお返しした。担当編集さんとは何度かやりとりをしたけれど、関係性が構築できるとは思えなかった。別にそれは悪いことではない。ただ、そうであったというだけだ。


 別段対価が欲しいと思って参加したわけではない。かといって一部――特に文芸系が中心と思われる――著者と直接対話する場に漂う妙な多幸感を得たいとも思ったわけではない。僕にとってはただ、書き手と売り手がどこまで対峙できるかを試みようとしてみただけであった。自分の力の無さを思い知ったという意味で僕には意味があったし、それで十分だった。むやみやたらと書き手と接触したがる書店員を、僕は理解できないでいる。

 
 しかし、冷静に考えてみて、広告や帯のコメントで発生するカネが、本の内容そのものについては発生しないというのはどういうことなのだろう。新聞やテレビによる取材を受ける場合もあったけれども、これらは当然謝礼などはない。ああそうか、してみると、本の中身を構成すると思われる座談会というのは、そうした取材と同一なのだろう。座談会の場では珈琲を一杯おごってもらったが、それで十分だと考えてみなくてはなるまい。

 
 してみると。自分が扱い、日々商っている「言葉のパッケージ」たる「本」の、「原価」とは何か。
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by todoroki-tetsu | 2012-09-16 00:05 | 業界 | Comments(0)

備忘録:「経営者」イデオロギーについて(補足)

 下記を補足する。

補足1)経営者の「主体性」について。市場において利益を最大化しようとするのは経営者の思考=志向のすべてではないが、相当程度を占める。その程度ならびに「それ以外」に何を思考=志向しているかに、様々なヴァリエーションがありうる。が、一定の類型化は不可能ではないと思われる。


補足2)経営者の主体性と受動性。企業内外の情況に対して、何らかの意思決定を行い実行するという意味では主体的である。だが、その主体性は時として認識において捻じれる。


補足3)補足2)の実例。所与の労働環境について先立つ責任があるにもかかわらず、それを労働者からの異議申し立てによって修正しようとする(無視するも含む)場合、先立つ自分の責任の部分が見事に忘れ去られ、ただ「労働者がこう言ってきたから(しょうがない)」という程度で対応することがある。それでも意思決定は主体的であるはずだが、主観としては受動的なものとして認識される。


補足4)補足2)の実例その2。市場の変化に対応する、との大義名分で所与の条件を疑わずに前提としてのみ捉える場合。規制緩和、新自由主義、グローバリズム、TPP……実例はおそらく、数多くある。天下の大勢に従うといえば聞こえはよいが、言葉の正しい意味での覇者の如き世界観と実行を伴わなければ単なる虚勢である。何かを不問に付している。何かを忘れている。何かを「しょうがない」と切り捨てている。そのような疑いはぬぐえない。


補足5)経営者が企業外の条件を所与の前提と考えるのは、相当程度に正しい。異議申し立てを行うよりも、環境の変化にいかに迅速に対応するか、と考えるのは実利的でもあり、また、より「主体的」に見えるものである。異議申し立てに対し、「じゃあどうすりゃいいんだ。今こうするしかないじゃないか」と反論するのはよくある光景である。しかし、その正しさはあくまで相対的なものでしかない。正しくないのではない、相対的である。決算書的な正しさである。


補足6)補足5)が成り立つのであれば、労働者の志向=思考もまた、相対的な正しさを有する。正しくないのではない。その判定をするのには第三者の審判が必要となる。その第三者を、仮に人間の理屈としておいた。参照項は例えば小田実であり、例えば花森安治となる。他にも、まだ、あるはずだ。


補足7)所与の前提を「しょうがない」と認識するか/改変しようとするか。しょうがないとして、どう生き延びていくか。改変しようとするとして、その方法やいかに。様々な問題が、理論的にはシンプルな原理に行き着くように考えること。しかし、その過程には無数のディティールがありうる。社会調査の蓄積に満身の敬意をはらうこと。


補足8)補助線として、価値を生みだすのは結局のところ人間ではないか、ということを念頭に置いてみる。高島善哉『価値論の復位』を読みなおすこと。しかし、その視座を「職場の社会学」にいかに活かすか、考えながら読みなおすこと。
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by todoroki-tetsu | 2011-10-25 19:33 | 業界 | Comments(0)

備忘録:「経営者」イデオロギーについて

 そのうち考えるかもしれないことのための、備忘録。

1)経営者と労働者の対立は、ある。だが、その境目あるいは閾値はどこにあるのか。

2)「実態」としては労働者にもかかわらず、経営者としての発想を身につけることは多く見られる(実例:所謂ビジネス書と労働問題本との圧倒的な市場規模の差)。その「実態」をどのように把握するか。

3)労働の実態と生活の実態。多くの場合においてその個人が大部分の時間を過ごす職場に即して観察し、考えること。職場の社会学(≠労働社会学)の構築の必要性。

4)権限の範囲、責任の範囲、賃金、業務内容の個別ならびに総合的調査の必要性。「中間管理職」的立場の若年化。特に正社員における業務の「無限」の拡大の及ぼす影響。

5)業務の拡大≒管理責任の拡大。「正社員なんだから……」と自分を納得させつつ、「正社員とはいえ……」と自問する。それを「正社員なんだから……」と納得・説得させるのが管理職の仕事となる。ここに、2)を考えるカギがあるように思われる。

6)5)は、外的内的要因によってその所属する経営組織が選択した結果として生じる。受動的ではなく主体的でありたいと考えた労働者は、経営組織の意思決定に参加しようとするか、さもなくばその意思決定を主体的に受けとめようと努力する。皮肉なことに、形は違えど経営者の思考ににじり寄ることにかわりないように見える。

7)6)をそのまま皮肉として嘲笑してはならない。断じてならない。個人に即してその皮肉の意味を考えること。

8)経営者の思考は端的に、決算書の見方にあらわれる。人件費は経費か投資か。固定費用か変動費用か。数字そのものよりも、その判断にかかっている。それは、数字の向こうに生身の人間を見出せるかどうかにかなりの程度賭けられる。数字の見方はひとつではない。

9)労働者の誰でも、仮に経営者にいきなりなったとした場合、業務内容が変わる以上発想が変化せざるを得ない。もちろん、だからと言って労使対立が無意味なわけでも不要なわけでもない。原理的な意味で、労働組合は労使にとって必要なことは言うまでもない。

10)9)に関連して。同じ人間でもおかれた立場、なすべき業務によって発想が変わるということ。これは当たり前のことのように思える。その中で、変わったからと開き直るか、そうはいっても……、と多少なりとも踏みとどまるか。個人の世界観はここにあらわれる。ひょっとすると、ここ「のみ」なのかもしれない。

11)おかれた立場、なすべき業務が変われば個人の発想が変わる、とするならば。個人固有の思想は消えるとまでは言わずとも相当程度姿を潜め、「物質的基盤」(!)などをその根拠としたイデオロギーが人間に反映しているだけだということになってしまうかもしれない。その手前で立ち止まらなければならないが、立ち止まるべき場所はどこにあるのか、見極めること。

12)労働者と経営者の対立は、ある。その対立は覆い隠してはならない。だが、本当に撃たなければならないのは何なのか。それが経営者個人の場合ももちろんある。しかし、それだけだろうか?

13)3)でいう「職場の社会学」の構築と同時に必要なのは、経営者の類型化。根っからの経営者、労働者から転じた経営者の比較、など。生きた実例として堤清二=辻井喬への興味は尽きぬが、対象を幅広くとること。

14)経営者は経営者の理屈がある。同様に、労働者には労働者の理屈がある。この両者は対立するものであり、たたかいであることは言うまでもない。しかし、どちらも人間ではないのかと考えてみる。人間には人間の理屈がある。人間の理屈の上で、経営者の理屈と労働者の理屈があるのではないのか。どちらが人間の理屈を体現しているか。人間の理屈から離れてしまっているのはどちらの理屈か。

15)14)を考えるには、3)と13)のような実態調査と同時に、「関係の絶対性」(吉本隆明)を手がかりに理論上のモデルを構築することは出来ないか。中期(?)見田宗介の社会理論に学ぶことが出来ないか。

16)批判しているものにいつの間にか取り込まれている。そんな光景は何度も見てきたし、自分自身もそんな光景から逃れられていない。開き直りはいつでも出来る(すでにかなりしているが)。とどまるとしたら、ほんの少しずつでも、考え続けるしか途はない。
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by todoroki-tetsu | 2011-10-25 14:35 | 業界 | Comments(0)

「『非正規雇用の増加』が背景に」

 今朝9/17(土)の「毎日」、「気軽な書き込み 『炎上』呼ぶ恐れも ツイッター、ブログ注意必要」の記事。自分の勤める店でも細々とツイッターをやっていたりするので他人事ではない。

 
 そう思って眺めていて、弁護士岡村久道さんのコメントに目がとまる。「『非正規雇用の増加』が背景に」とタイトルにある。コメントの一部を引こう。

 
 こうした騒動(従業員が勤務先やホテルに「有名人が来た」などと投稿すること)が目立つようになったのは、飲食店やホテルなどに非正規雇用が増えている現状と「合わせ鏡」と言えるのではないか。



 ここに、何か手がかりを感じる。岡村さんがどこまでをお考えの上でこうした発言をされたのか、これ以上コメントの中から探ろうとするのは難しいと思う。以下はあくまでこれをきっかけにした僕の考え。

 
 それは、「こうした騒動」をおこす人=「非正規雇用」とは捉えないようにしようということ。「非正規雇用」が増えている職場の「情況」がかかる騒動を生みだす、そう考えようとすること。

 
 しばしば僕の職場でもクレームやトラブルが起きる。契約スタッフが引き起こしたものだとあたかも「契約スタッフだから悪い」みたいな物言いがなされる。偉い人からもそうだし、場合によっては現場の一部もそうだ。しかし、冷静に考えてみれば、所謂正社員をバカスカ削り、その分を契約スタッフで補っている以上、顧客と第一に接するそのほとんどが契約スタッフなのであって、接する機会が多ければ多いほど、クレームは発生しうる。それは正社員であるか契約スタッフであるかにかかわらず、単純に、接客数の問題が根底にある。

 
 そして、かかるクレームやトラブルが起きた時、やれ教育だの管理だのと言われるわけだが、それは具体的に誰が実行することになるのか? 現場の正社員に他ならない。かくして正社員が負うべき仕事は増える。ただ仕事が増えるだけならまだよいのだが、暗黙のうちに責任だけが増えていく、えらい人からも契約スタッフからも。


 そうなると正社員がとるべき道は限られる。大きくいって、二つしか道はない。ひとつめは居直りとでもいうべきだろうか、「自分は正社員であって契約スタッフとは違う」というもの。俺はあいつらとは違うんだ、というわけだ。ふたつめは、「何とかえらい人とも契約スタッフともうまくやっていこう。それは自分の仕事だ」というもの。そのどちらもストレスがたまる。精神的にシビアな状態になっていく正社員が減る気配は感じない。

 
 1年ごとに契約更新のあるスタッフのストレスも相当にあるだろう――これは僕にはただもう想像するよりほかないことだ――、だから「正社員だって苦しいんだ」とだけ言うつもりはない。正社員でもあり、またささやかながら役職に伴う権限を有する自分が口にするのは甘いと言われるかもしれないが、このままいくと正社員も「もたない」んじゃないか、とは思う。だから正社員を守れ、などとは言わない。みんなにとってよりましな情況を作り出すことは出来ないのか、と思うのだ。


 では、どうするか、と考える前に、もう少し自分の立ち位置を見直してみたい。それは例えば、小林美希さんの『ルポ“正社員”の若者たち―就職氷河期世代を追う』(岩波書店)を読みながら「自分の職場はここであげられているほどひどくはない」と、共感よりも違いを見つけ出すことで安堵を得ようとする心性であったりする。


 ごまかしがきかない領域に、踏み込んでいかねばならないだろう。耐えられずにすぐさま逃げ出しそうな気もするが、しかし。
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by todoroki-tetsu | 2011-09-17 08:07 | 業界 | Comments(0)

開沼博『「フクシマ」論』を読んで――その二

 『「フクシマ」論』の感想を続ける。


2.「忘却」の問題
 
 これ(原発事故)がもっと早く収束していたら、福島よりも東京から遠いところで起こっていたらここまで騒ぎにはなっていなかった。どうせ時間が立ち(ママ)、火の粉が気にならなくなればニワカは一気に引いていく。(P.11)


 まえがきにあたる「『フクシマ』を語る前に」の言葉。また、補章においても「『忘却』への抗い」という節を設けておられる。

 さて、ではいかにして忘却から逃れられるか。これは自分自身にとっての課題である。「現場」を歩いてみること、自分にとって身近な問題――特に職場/労働――に連関させながら考えてみること、以外に今のところ思いつかないでいる。

 自分は忘れないと思っていても忘れる人間である。ここから出発しなければとだけは思っている。


3.「消費」の問題
 「忘却」の問題ともかかわることとして、言説の「消費」の問題をあげておきたい。これは書店員として、本を売ることでメシを食っている自分自身の生活基盤にかかわることでもある。

 問題はもはや「新規性のない議論」自体にはない。その新規性のない議論をあたかもそれさえ解決すれば全てがうまくいくかの如く熱狂し、そしてその熱狂を消費していく社会のあり様にこそ問題がある。(P.374)


 その「消費」の中で、僕はメシを食っている。自分の衣食住には勿論開沼さんの本を売った利益の一部も当然入りこんでいるわけだ。

 売るためには差別化が必要で、飽きられたと思ったらすぐさま次のネタに飛びつかねばならない。そのネタは必ずしも新しいもの、新刊である必要はないわけだが、この間の原発本・放射線本の「洪水」を見ると「いいよ、もう」となってしまうのもまた事実。かくして即席でなんとか用意したスペースは有象無象の本で埋まり、ごちゃごちゃになって売上を互いに喰い尽くして末期症状となる。名のある人の本ですら、もう勢いはない。こうなると営業する側も売れる/売れないではなく、モロにイデオロギーの話になってくる場合があって、そんなことはもうすでに「蟹工船」だの「資本論」だののブームの時に経験済みである。

 僕はボードリヤールが好きではない。が、こうなってくるとまあ、それなりに正しいんだろうなとも思えてくる。何よりも「差異」を求めているのが自分であることに気づく。

 もちろん、こうした混乱の中からロングセラーとなり得るものを見つけ出す作業を怠るつもりはないし、今の議論を別の議論や過去の議論に結びつける努力も、しんどいけれど楽しいことであるし、少しずつではあるがやってもいる。けれど、それでも「消費」過程の小手先の一部分でしかないだろうとも思うのだ。

 さらに言えば。自分は「著者」を食いつぶしているのではないかという思いもある。最終的に財布を開くのはお客さんなんであって……という言い方は出来るし、それは相当に正しいのだけれども、「著者」を自分勝手にある時は持ち上げ、ある時はこきおろし、そうすることで「差異」を演出しているのではないか。それがイヤだということもあって、ある「若手批評家」が持ち上げられた時には見向きもしなかったのだが。やたらとその著者を持ち上げる同僚に、「10年後その著者の書いた本を自分はどう売るつもりか考えているのか」とそれとなく聞いてみたことがある。質問の意味は、ついに理解されなかった。

 もとから著者さんとの接触は極力避ける人間だ。出来ることなら社交辞令もご免こうむりたい。商いの切っ先が鈍ることもあるし、何よりこちらは売れるか売れないかが勝負である以上、もしその著者が売れなくなってしまったらそれでおしまいなのだ。こちらは内容ではなく、実売数だけが頭に入っているのである。そのかわりといっては何だが、多少なりとも機会のあった著者さんについては極力執着して追う覚悟はしている。すべてにおいて無意味に多く部数を仕入れるという意味ではなく、どうすればより売れるか、そのために自分自身に出来ることは何かを志向し続ける覚悟。そしてさらに場合によっては著者さんへの苦言を呈することも辞さぬ覚悟。実際にそうするかどうかは別であって、あくまで覚悟の問題。

 今は『「フクシマ」論』には多少なりとも力点を置いて売っているつもりではあるし、少なくとも数年程度は定番書として売れていくだろう。では、次に開沼さんが何かをお書きになった時、自分はどうするだろう。僕はまだその覚悟を決められないでいる。

 ここには「言葉の商品化」とその流通過程にある「書店(員)」の問題がある。それはまだ、僕にはうすぼんやりとした問題にしか映っていない。それをいかにクリアにしていくか。

 著者には著者の覚悟がある。書店員には書店員の覚悟がなければならない。読みながら考えていたことの一方は、そういうことであった。
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by todoroki-tetsu | 2011-08-19 11:58 | 業界 | Comments(0)

開沼博『「フクシマ」論』を読んで――その一

 もう何冊目になるのか数えようともしていないtwitter読書、開沼博さんの『「フクシマ」論』にした。タグは #fukushimaron 。日本語のタグも使えるようになったと知ったのは読み始めてからだった。

 出た当初は「フクシマ」というカタカナ表記がどうにも気に入らず、手に取る気にならなかった。しかし、やはり何かしら自分も足を運ばなければならないと感じて、『津波と原発』とともにしょうがなく購入したというのが正直なところ(ついでながら、佐野眞一さんも僕はあまり好んで読まないほうである)。

 ところが読み始めるとこれが意外に面白く、荒削りな部分ももちろんあるだろうが、問題意識の塊がぶつけられてくるようで非常にスリリングであり、また自分自身の考えていることなどとあわせてハッとさせられるところも多くあった。個別にはtwitterで記したので、論点を絞って自分なりの感想を記すことにしたい。


1.「内へのコロナイゼーション」
 P.325-8に整理された記述があるが、全篇を貫き通しているといってよい。用語にかかわる部分だけ引いておくと、「ここでいう『コロナイゼーション』とは、成長に不可欠な種々の資源や経済格差を求めて『植民地化』を進めていく過程」(P.326)である。

 1945年までの対外膨張的な植民地主義が、国内に向かって行く過程。その中に福島が、いや「地方」があった、ということ。これは極めて重要である。読みながら上原專祿を常に想起していたのだが、あらためて上原自身の言うところを引いておきたい。著作集14巻『国民形成の教育』に収録された1963年の講演録、「民族の歴史的課題と国民教育の任務」から。

 ところで、現在、日本には、今私が申しましたような地域認識の方法とはたいへん違った地域認識の方法というものが、権力、独占資本の側で形成されていると思うのです。それはどういうことかというと、地域における産業、地域における教育、別の言葉でいえば、「生活」の実際というものに即して、産業の問題や、教育の問題を考えてみて、そのような諸問題の有機的な複合物として、日本全体の産業や教育の問題を具体的に考えて、問題の解決をはかるのではなくて、中央の権力、その権力をバックにしている独占資本、そういうものの利益を追求していくという角度から地域を眺めて、地域というものを、そのような権力や独占資本の利益を実現していくための手段にしていこうとする、そういう見方や考え方のことです。こういう見方や考え方のもとでは、地位のもっている問題の具体性、問題の現実性というものはかえりみられないことになり、地域というものは、中央にとっての、利益追求の手段としてのたんなる「地方」というものに抽象化される。つまり、中央の権力や独占資本の考えていることは、地域を地方化していこうとすることなのです。(P.353)


 『「フクシマ」論』の見地からすれば、おそらくこうした物言いは地域の側の「能動性」を見ていないという点で批判の対象となるだろう。私もそう思う。しかし、そう簡単に切り捨てられそうにもない。汲みとれる何かがまだ、ある。
 
 地域は、日本民族の生活、日本民族の仕事がそこで具体的にいとなまれ、具体的に展開される場であると考えられます。地域の問題はその意味において、ことごとく民族の問題であると言ってよい、と思うのであります。(P.359)


 地域の問題は民族の問題である。では、民族の問題とは何か。それはとりもなおさず平和の問題であり、独立の問題である……そのように論は進んでいく。上原は別のところで、①平和の問題、②独立の問題、③民主化の問題、④貧困の問題の4つを「現代」の課題として捉え、さらにその中でも②独立の問題に課題を凝集させる認識を示している(「民族の独立と国民教育の課題」、P.39-61)。

 地域の問題から民族の問題、そして独立の問題へ……荒削りな連想ではあるが、ここからより具体的なイメージをつかみ取ることは出来ないだろうか。すぐさま思い浮かぶのは『吉里吉里人』だが、ここでは廃する。今一度、上原の言葉に耳を傾ける。

 全人類の問題というのは大げさだ、というかも知れませんが、人類中のある部分が他の部分を抑圧している、そのことをもって、そういう事実をそのままにしておいて、人間が人間を人間らしく扱っていく人類社会ができつつあるのだと、どうして言えるか。(略)これは抑圧されている側の問題でありうるだけでなくて、意識的、無意識的に抑圧をしつつある、独立をさせない、自由を与えない、平等の状態を与えないでいる、そういう人たちにとっても問題なのであって、そういう独立しない国々、自由や平等が享受できない国々、そういう人たちというものを、この世界に存在させておいて、人間の尊厳などということが、人類の尊厳などということが、どうして言えるのか、人間は人間の尊厳ということを、皮肉でもなく、反語でもなく言えるような、そういう現実になりうるためには、どうすればよいかという、全人類的な問題であって、そのような問題が地域において具体的な形をとって出てきているのだと思うのであります。(P.370)


 ここでさらなる補助線を引く。雨宮処凛さんのいう「必ず誰かが犠牲になる社会は嫌だ」(『ドキュメント 雨宮☆革命』)。

 誰かに抑圧される、誰かの犠牲になるのも嫌だし、誰かを抑圧し、誰かを犠牲にするのも嫌だ――そう考えてみた時、果たして「フクシマ」は自分にとってどのような課題と認識されるか。

 おそらく、労働・職場の問題と言う観点は外せないだろう。twitterで僕はこう記した。

 朝鮮人労働者の証言とその後追いはさらに続く。「植民地的主体性」を持った人物=京大出の朝鮮人に行わせた「統治」(P.339-342)。ここでもまた自分の職場のことが思い起こされる。契約スタッフの一部を「主体化」させ「統治」することは僕の日常としてある


 ひょっとするともっとシンプルに考えてもいいのかもしれない。が、課題は何重にも複合しているようにも思える。が、「内なるコロナイゼーション」と自分自身が無縁でないことだけは、おそらく真実だろう。
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by todoroki-tetsu | 2011-08-19 10:09 | 業界 | Comments(0)

上原專祿『増補改訂版 世界史における現代のアジア』

 ずっと懸案であったことのひとつだった。上原專祿の『増補改訂版 世界史における現代のアジア』(「著作集」13巻、評論社)をtwitterで何とか読み終えた。ハッシュタグは #uehara_asia とした。


 前々から上原を一度はやってみようとは思っていた。でも畏れ多いような気もして敬遠していた。たいがい僕はねっ転がって本を読むことが多いのだが、上原の本だけはきちっと机に向かって読む。なぜだか自分でもわからない。


 いっとう最初にはじめたのは今年の1/15。どうやら当時の時事問題の何かに思うところがあったらしい。おぼえていない。たぶん、独立とは何か、みたいなことを考えていたような気がする。少しだけ進めて、長らく中断。ちゃんとやり直さなければ、と思ったのは中島岳志さんの『秋葉原事件』を読み進めていた時。自分の中で、何かの問題に接した時の態度なり方法論なりといったものを、鍛え直す必要があると感じたから。

 
 というわけで実際に読み進めていた最近では、もっぱら上原の方法論・認識論に重点を置いた読み方となった。典型的にそのあたりが現れたツイートを編集の上再掲する。

 「私たちは日本の全体を動かす力がないのであろうか」(P.237)と問いかける。世界や日本を動かしているのは超越的存在ではなく、人間ではないか、と上原は訴える。当然ここは上原が受けている日蓮の影響を無視できない。重要な部分。


 「世界の動きや日本の動きに自分だけが圏外に立って、偉い人がやってくれるだろうという気持ちであるならば、それは政治の実際の動き方を知らないことになる」(P.239)。卑下もせずうぬぼれもせず、「淡々とした人間の一人、日本人の一人」という意識が欲しい、と。


 「その意識に立つと、自分の生活や仕事に関心を持つのと、少なくとも同じ度合いで、日本の動きや世界の動きを問題にせざるを得ない気持ちになるであろう」(P.239)。そうは出来ていない自分のことはとりあえず棚に上げておくとして(忘れはしない)、ひとまず頷く。


「自分の生活というものは、家庭や職場を中心とする場合でも、いつでも世界や日本の問題が集約されたかたちでそこに問題になって来ているのであって、世界や日本の動きと関係のない自分だけの生活や仕事というものは絶対にあり得ない」(P.239)。全面的に賛成。


 「極端にいえば、自分の仕事や、自分の生活というものは、世界ならびに日本の問題の非常に具体的なかたまりなのだ」(P.239)。頭に叩き込んでおこう。ここで上田耕一郎ではなく、あえて浅尾大輔さんの言葉をメモ的に記しておきたい。「働く人の根は、家族や家庭にはなく、職場にあるのです」と今は閉じられたご自身のブログのコメント欄に浅尾さんは記しておられる。ずっと気になっている。上原の文脈とは少しずれようが、手放せない言葉。


 「世界と日本と自己を一緒につかみ、同時に認識し、統一的に生きていこうとすると、そこに生活の重量感といううものをだれでも感じるであろう。気楽に生きるためには、職場の全体、仕事の全体がどうなっていようと、自分に与えられた仕事をどうするかということだけを考えてほかのことは考えない方がよい。いわんや日本の社会の全体や人類の未来などについては一切考えない方がよい。ところで、こうした考え方だと、気楽に生きていくことは出来るが、一人の人間がそのような生き方をすると、その当人の分まで背負い込んで心配しなければならない別の個人が必要になってくる。(略)こういうことに気がつくと、重くてもやはり世界、日本のことを考えてみる必要が起こってくる。それは一種の道義的責任みたいな問題ではないかと思う」(P.240-1)

 この部分は難しい。世界と日本の問題の「具体的なかたまり」として自分の仕事や生活を認識するか、という問題と、誰がそれを担うのかという問題。確かに「道義」だろう。では、その「道義」が通用しない/させない場合ははたして? 難しい。だが、「荷物は好きでも嫌いでも存在する。これを一緒になってになっていける仕組と雰囲気と各個人の考え方が出て来れば、楽にやれる。同じ方向に皆が協力して担って行けば重くあっても快い」(P.241)というのは理解できる。


 「自分の仕事や自分の生活を考えるのと、最少限同じ度合で世界の動きと日本の動きについて考えてみると、両者の間には内的連関があるだけではなく、それ以上に同じ問題の両側面にほかならないものであり、同時に自分自身の問題であることがわかるのである」(P.241)


 
 「具体的なかたまり」として自分の仕事や生活を認識する。このことの重要性は判る。ここは全面的に賛成でもあり、実践すべく心がけたい。だが、それは「道義」だろうか? 話の通用する奴には通用するかもしれないが、通用しない奴には通用しないのではないのか? 

 
 日蓮か親鸞か? とどっちもよく知らないくせに、そんな思いを抱きながら読み進めていたのでもあった。自ら悟りを啓かんがごとく己自身と日本と世界を統一的に把握しようとする試みを、まっとうに検証するにはその対極の親鸞をぶつけて考えてみるしかないのではないか、と。今到底出来ることではないし、見当違いかもしれないが、じっくりと考えてみたい。

 
 さて、「具体的なかたまり」として自分の仕事や生活を認識するというのは、はたしてどういうことか。「具体的なかたまり」はまさに具体的なのであって、そこからは多種多様なものを引き出すことが出来るだろう。上原はそこに世界史認識と、主体性とでもいうべきものを常に打ち込んでいる。その両者なくしては上原のような認識は成り立ち得まい。そこをもっと突き詰めたいという気持ちと、方法論を借りてもう少し別のアプローチができないものか、という思いとが錯綜する。上原の他の著作もこのように進めていきたいと思うものの、社会科学のモロの古典にまでさかのぼろうと考えてもいる。そろそろ助走に取り掛かる。


 方法論にばかりこだわっているが、実際そうでもあり、またそこに逃げているのだという気もしている。お前は何をやるつもりなのだ? という問いに具体的に応えていかねばならないのだろう。
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by todoroki-tetsu | 2011-07-02 22:28 | 業界 | Comments(0)

就職内定率(続き)

 就職内定率がひどく悪いことに関わって書いたのだが、自分でまとめきれずに後味の悪さが残っている。要するに、立ち位置がはっきりしていない、ということなのだろう。


 別に大上段に政策だの制度だのを述べる準備はない。それは専門家に任せればよい。自分自身も乗っかってきた「新卒重視」の仕組みも相対化すべきなのだろうが、では、自分がどうすればいいのかはよく分からない。新卒採用をやめてアルバイトや契約社員でこれはと思う人を随時採用したらいいんじゃないか、などと自分の会社については思うけれど、制度的な問題だけでなく、実際契約社員で優れているからと言って正社員としてそのまま出来るかどうかという問題はあるように思われて、結局職務と職位の関係をもっと考えなきゃ先に進めないのかな、と思ったりもする。


 しかし、学生の就職活動の長期化、あるいはその苦労や負担の深刻化についてだけは、「何とかしないとだめだ」とは言えるし、言わなければならないと思う。なぜか。学生の本分は勉強であるから。


 古めかしい理由かもしれないが、そうなのだ。勉強の内容はなんでもいい。就職活動に今事実上1年かかっているのだろうから、やはりせめて半年前後に収めるようにしたい。その分専門でも教養でもなんでもいい、勉強して欲しい。真面目に講義に出るばかりが勉強ではないと思うが、そこは問わないでおこう。


 学生であるうちに学生でしか出来ないことをもっと追究してもらうことを基礎として、働いてからもっと面白いことをやってほしい。僕は採用担当者ではないけれども、新しく入ってくる人を迎えるに際しては、それだけの度量を持とうと思う。就職活動の長期化でいい人材が入ってきたとも思えないが、短期化になって「即戦力」じゃない人だらけになっても文句は言わない。じっくり育てましょう。

  
 インターンシップだとかも受け入れを何度もやっているが、これもご時世だと思いながら、頭の片隅で「この時間を読書に費やしてくれればなあ」といつも思う。


 学生が勉強するのは学生自身のためではない。その知識を学校以外の場で活かすために勉強してもらうのである。それが、学費の社会負担を正当化する理屈である。かつて学費負担の軽減を学生自治会で訴えた身としては、ここを譲るわけにはいかない。さらにいえば、学校での勉強は、むしろ、企業に直結しないようなことのほうが、いい。書店勤めは雑学がモノを言う場合があるからよけいにそう思うのかもしれないが、4年程度でこじゃれたマーケティング用語を振り回すような奴よりは、土器を探して穴ばっかり掘ってましたみたいな奴のほうがよっぽどのび代がある。いや、別にカタカナ語を振り回すのが悪いわけじゃない。が、それ以外の世界をどれだけ持っているか、が面白い仕事が出来るかどうかのカギなのだ。


 働いてから身につける知識は山ほどある。だからこそ、そうではない知識を学生時代に身につけることに専心して欲しい。それを可能にする制度や仕組みがどんなものかは分からないが、少なくとも、今よりは学生の負担が少なくなるような制度や仕組みが望ましいと言うことは出来る。


 これを、学生の心理負担を増大させずに(「そんなこと言われたって……」と学生さんは思うだろう。正しい)、なおかつ言いっぱなしではなくするためにはどうするか。一日の大半をすごす「職場」での自分の言動を、問い直すことになるのだろう。
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by todoroki-tetsu | 2010-11-20 10:01 | 業界 | Comments(0)