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2012・8・23の各紙朝刊、別名「『運動』もしくは『問題』について」(その三)

 2012年8月23日の「読売」朝刊で、僕がもっとも強い反応を示したのは「編集手帳」であった。落語「百年目」を下敷きに、原発の「かけがえのなさ」を語る。着想と構成はなるほどそれなりのものだろうが、さて、「百年目」はそのように解釈出来る噺であるだろうか。


 この演目は、桂米朝師をして「もっとも難しい」と言わしめた噺であり、演じ手にもよるだろうがやはり名作であり、大作である。笑いの大きな噺ではなく、商家を舞台に人情の機微が語られる、そんな趣だ。以下、米朝師の口演を念頭に置いて思考を進めていくが、僕は何度となく繰り返し聞いてきたし、商人のはしくれとして同師の「千両みかん」同様、ことあるごとに手がかりを求めてきた噺でもある。


 商家の番頭が、丁稚や若い衆に手厳しい叱言を口にする場面が幕あきだ。ずいぶんと厳しい、杓子定規に見える番頭。その実はなかなかに粋でお茶屋遊びは手慣れたもの。その筋ではなかなかに人気のある様子だが、旦那にバレてはいけないと用意は周到。得意先を回るという口実で脱け出した番頭は、舟遊びを兼ねた花見へと、たいこもちともども繰り出していく。


 酒も入り、興に乗った番頭だが、ふと花見の先で旦那と出くわしてしまう。あわてて店に帰った番頭は「頭が痛い」と早々に床に入る。旦那が帰ってくるのはそのあとだが、番頭の様子を聞いてかえって気遣いを見せる。


 この一晩の番頭の苦悩。もうじきのれん分けであるというのにえらい失態をしてしまった。どんなお叱りをうけるか判らない。逃げ出してしまおうか。いや、ひょっとすると許してくれるかもしれない。いやいや……と一晩まんじりともせずに過ごす。


 翌朝一番の描写は、冒頭の小言との対比と相まってなんともいえないおかしみがある。口演に譲ろう。


 さて、いよいよ旦那から呼び出しがくる。


 どんな小言が出てくるかと身構えている番頭。「お前さん、『だんな』という言葉がどこから出てくるか、知ってなはるか」と、先だって寺方から聞いたという話を聞かせる旦那。


 ここの部分を「編集手帳」は取ってきているのだが、簡単に記しておくと、赤栴檀(しゃくせんだん)という立派な木があるが、その周りには南縁草という汚い草が生える。これを刈り取ってしまうと、赤栴檀は枯れてしまう。南縁草は赤栴檀の枝からこぼれ落ちる露を得て生息し、枯れた南縁草は赤栴檀にとってまたとない肥やしとなる。寺と檀家はこのようなものだ。赤栴檀の「だん」と南縁草の「な」で「だんな」という……。


 旦那が赤栴檀だとすれば、南縁草は番頭。しかし、「店に出ればお前さんが赤栴檀じゃ。赤栴檀はえらい馬力じゃが、周りの南縁草がちょっとぐんにゃりしていやせんかいな」と、人をつかう難しさに思いをよせつつ、番頭にやわらかく教え諭す。自分にとっての南縁草である番頭に何かあっては、自分自身も困るのだから、と添えながら。


 柔和に見える旦那だが、厳しさはもちろんある。かたいばかりと思っていた番頭の見事な遊びっぷり。どこかで無理をしていやせんかと帳簿を全て自分で調べ、不正なことは何もないと確認する。自分の稼ぎで遊ぶのに何の遠慮があるか、商人はこういう時にカネの使い負けはするな、とむしろ発破をかける。
 

 ほかにも織りなすエピソードが多いが、ひとまずはこんなところで十分だ。


 目先のこと、あるいは見た目で、何かを切り捨てると、予期せぬことが起きる。ムードに流されるな、ということ? まあ、「編集手帳」の言いたいことはそんなことだろう。が、「百年目」そのものに、赤栴檀を「日本経済」とし、南縁草を「原発」と解釈するような、そういう余地はあるだろうか。


 赤栴檀は立派な香木であり、南縁草にも露を落とす。見栄えのしない南縁草はその露で生き、枯れて赤栴檀の肥しとなる。これはある種完成された関係性である。卑小な意味での「持ちつ持たれつ」ではない、もっと大きな、いかにも仏教らしいおおらかさが伝わってくる。それを語る旦那の器の大きさもまた素晴らしい。


 では、こうした完成された関係性が、日本経済と原発にはあるのだろうか。二百万人の雇用が云々、と編集手帳にはある。しかし僕は、「百年目」で旦那に感じ取ることの出来たスケールの大きさを、ここから読みとることは出来ない。恫喝にしか読むことが出来ない。


 確かに、原発にかかわる雇用の問題はある。それを否定しないし、そこが僕の「弱さ」でもあることは記しておいた。それを主張するのはいい。しかし、どうしても、その主張が「百年目」の世界とは重なり合わないのだ。強烈な違和感をぬぐい去ることが出来ない。
 

 赤栴檀と南縁草の喩は、旦那自身が我が身に置き換え、そして「店に出ればおまえさんがしゃくせんだんじゃ」と諭したもの。ここではお坊さんのお話を、我とわが身に引き寄せて考えているわけだ。しかも、南縁草は別の人から見れば栴檀でもあるのだ。そのような関係性を忘れてはこの噺は台無しなのだ。


 日本経済を栴檀とし、原発を南縁草とする、その趣向を考えだした当人は、コラムの中のいったいどこにいるのか。ほんとうにこの噺を聞いたのだろうか。回数ではない。何を思ってこの噺を聞いたのだろうかといぶかる。

 
 何かを言おうとするとき、様々な物語などに仮託することはあっていいし、どんどんやられてしかるべきだ。「誤読」は意義のあることだ。しかし、それにはおのずと限度と言うものがある。人間の噺であるところの「百年目」を、原発擁護に用いようとすることじたいが無理なのだ。

 
 もしどうしても「百年目」の世界観を引き付けたいのであれば、番頭を教え諭す、「店に出ればお前さんが赤栴檀じゃ」という言い方。この論法を原発に当てはめるしか術はない。原発はなるほど「日本経済」なるものの中心にいる者、電力会社の役員クラス、それらと利益を共にする者にとっては、南縁草でしかないかもしれない。だがしかし、原発の、その地理的な意味での周りで働き、生活する者にとっては赤栴檀なのだ。この連関の中に、自分自身を置いてみようと努力するしかない。

 
 何重もの下請けと、被ばく労働で成り立つ赤栴檀が、果たして露を落としていると言えるか。カネという露は確かに落とすだろう。しかし、それはほんの一部ではないのか。むしろ落とす露を最小限にして、「えらい馬力」を誇っているのだけではないのか。このままだと、赤栴檀=原発は枯れてしまいますよ。あくまで露を最小限にしか落とさないとするなら、南縁草はいつかは枯れる。いや、それ以前に、南縁草は生えなくなるでしょう。そのような教え諭しも一言添えておこう。

 
 これを「編集手帳」の失業者数云々と同じ「恫喝」と読まれては困る。「百年目」の眼目は、赤栴檀でもあり南縁草でもある立場、この二重性にある。この二重性を自覚してはじめて噺が生きてくる。自分だけが安全圏にいるかのような「日本経済」(を語る人間)に、「百年目」を借りる資格はない。


 原発を維持する側なら「このままだとよくない」と締めればよい。原発に反対するなら「そんな赤栴檀ならいらない」と言い放てばよい。

 
 ほんとうに原発を維持したいと思っているのなら、更に加えてどうしても「百年目」の世界観を借りたいなら、以上のような論法以外にはありえない。さらに言えば、下請け構造と被ばく労働という人の問題、そしておそらくは地域の貧困という問題を含まないあらゆる論法はダメなのだ。


 それは、原発に反対する場合にも言えることだろう。さてどうするか。ここが僕の弱点でもあることを繰り返し記しておく。



 
 
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by todoroki-tetsu | 2012-08-27 10:25 | 運動系 | Comments(0)

2012・8・23の各紙朝刊、別名「『運動』もしくは『問題』について」(その二)

 2012年8月23日付の各紙朝刊を引き続き読んでいる。


 「読売」では「悪い前例」(3面)という言葉が用いられているのが象徴的に思われる。社説も「禍根残す面会パフォーマンス」とある。この社説にも2面の政治部次長署名記事にも大阪市長の同じコメントが引かれているのは何か意味ありげだが、そこに深入りするつもりはない。


 社説の最後はこう記されている。

 首相の判断で原発を再稼働させたことで、電力危機が回避されたのである。引き続き現実的なエネルギー政策を推進すべきだ。


 ここでいう「電力危機」とはなんだろうか。電力が不足するかしないか、という意味だろうか。それとも、電力会社の「経営」の危機だろうか。

 
 原子力発電所が再稼働されたのち、火力発電所を止める余裕が出来たと聞く。今この時点でどの程度の火力発電所が止まり、また稼働しているのか、僕は知らない。が、「電力危機」という言葉の内容ははっきりさせてほしい、と思う。


 電力の不足も電力会社の経営も、どちらも結局同じ「危機」でしょう、という意見や考え方があったとすれば、それに対して僕は否と答えるほかはない。別々の問題を一緒くたにしちゃいけない、という単純な理由による。もちろん、別々の問題が考え抜かれた末に、ひとつの問題として観念されることはあり得るだろう。しかし、まだその時ではないように僕には思える。


 もうひとつ判らないことがある。ここでいう「現実的」というのは何のことか。僕にとっての現実は、繰り返すが、子どもの姿の見えない町の様子であり、閉じられて久しいと思しきスーパーであり、錆びついたレールの映像である。少なくとも、これを塗り替えなければならないような「現実」を、この文章から感じ取ることは僕には出来なかった。


 政治部次長署名記事のタイトルは、「『声なき声』に耳を傾けよ」とある。官邸前に集まるひとびとを「声ある声」とし、「声なき声」を称揚するのは、やはりひとつの立場であるだろう。原子力発電、という問題に対するスタンスであるだけでなく、こうした直接行動に対するまなざしがあぶり出される。


 逆に問われるのは、自分(たち)が賛意を表するような事柄に対し直接行動がなされた時に、同じ立場からものが言えるかということだ。原発再稼働を求める人びとが20万人集まり、その結果首相が会おうとなった時、同じように「『声なき声』に耳を傾けよ」と言えなければ嘘だ。
 

 「賛成か反対かも大事だが、外部から論評するのか、それとも、自らの内部をえぐるものとしてとらえられているかどうか。そのほうが、はるかにたいせつだ」。そう僕は何度でも繰り返す。自分の内部をえぐるとは、他者の声にどう向き合うか、という問題であるだろう。他者を利用してもならないし、他者に利用されてもならない。


 しかし、この日の「読売」で、僕がもっとも強い反応を示したのは「編集手帳」であった。項を改める。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-26 14:39 | 運動系 | Comments(0)

2012・8・23の各紙朝刊、別名「『運動』もしくは『問題』について」

 原発に反対する側の人々と首相が会見をした、その翌日に様々な新聞を買い求めた。普段購読しているものとあわせ、8/23付の「毎日」「産経」「読売」「日経」「朝日」「東京」朝刊を手元にそろえる。


 前日に久々にアルコールを入れたせいか、えらく体調が悪い。とにもかくにも新聞は買ったものの、仕事も仕事でそれなりにあるものだから、ようやく新聞を少し落ち着いて眺められたのは夕方、遅い時間の一服とも取り損ねた休憩ともいえないような時であった。


 どの新聞がどれだけ報道しているか、どんな論調で記しているかをもって何かを言おうとする気はない。色んな人や立場の、その一端を知る。自分とあっているかどうかが問題ではない。記された言葉や写真に、自分は何を思うのか。それが問題である。


 順不同に新聞をひろげる。「日経」3面では、パブリックコメントの報道と重ねあわせ、「意識調査出そろう」と見出しをつける。材料はそろった、ということなのだろう。35面社会面では、「団体側」が不信の声を募らせた、とする。


 「産経」3面では、比較的大きな、横長の写真を見る。前首相が現首相と並んでいるように見える。この配置が何を意味するのかは判らない。斜め後ろから「反原発連合」の面々の後頭部が映る。名前が判るのは学者さんだけだ。この方も含め、官邸前では何度かお見かけしたことがある。何かが繋がったという感覚がある。外と内が、ほんの一瞬かもしれないが、繋がったという感覚。


 同紙の「主張」は明快、「ブレずに再稼働を進めよ」とある。「首相が安易な脱原発に与する姿勢を見せなかったのは当然」であり、「『原発ゼロ』を選んだ人たちは現実を直視しているのだろうか」と問う。もちろん、「不安や不信を払拭する安全対策を強めていく必要がある」との文言は忘れられていない。

 
 僕はこの意見に与するものではない。けれど、原発にさして反対とは思っていないならば、そう違和感なく受け取ることが出来るだろうと思われる。反対する意見からは様々なことが言えるだろう。その逆もまた然り。


 さて、ではなぜ僕は「この意見に与するものではない」と思っているのか。そこをもう少し考えてみる。


 僕は恥ずかしい話だが、シーベルトもベクレルも判らない。線量をはかったことはないし、はかろうとも積極的には思わない。食べ物も、自分が食べる分には気にしない。自分なりの節電はやっているが、それがどれほど影響のあることなのかも判らない。要するに、知識はないと言っていい。


 原爆―核実験からくる、様々なイメージは多少持ち合わせている。それと同じようなものが日本の各地にあるではないか、と言い放ったアーティストは、僕が心から尊敬する人のひとりである。その影響は、僕にとっては馬鹿にならないほどの大きさがある。


 しかし、現実に即そう。多くの人が口にする、原子力発電所が爆発したという映像を、僕は目にしていない。自分が具体的に逃げるか逃げないかという問題はさておき、比較的早くから――記憶ほど信用できないものはないが、しかしそれが確かならば、遅くとも2011年3月21日までにはそうしたことを僕は職場でしゃべっている――「原発さえなけりゃあここまでのおおごとにはならなかったろうに……」とは思っていた。


 これは裏を返せば、もし万が一原子力発電所が、あの地震と津波でも持ちこたえていたならば、漠然とした「ヤバいな」「出来ることならなくしたほうがよいのだが……」という程度の感想であったということだ。これを弱さというなら認めるし、継続している弱さである。


 しかし、一方で、「事故ったらこんなに取り返しのつかないことになるんだ」という怖さは、確実に刻まれている。それは、子どもの姿の見えない町の様子であり、閉じられて久しいと思しきスーパーであり、錆びついたレールの映像として僕の中にある。とんでもないことが起きたのだし、それは継続しているのだということ。


 怖さと同時に、疑問がある。なぜ再稼働をしなければならないのか。上述したような弱さを持つ僕は、百歩譲って、あの原子力発電所の事故を、せいぜい数日で完全に収束しえた組織や人がいたのであれば、再稼働を言い、実行する資格があるとも思う。賛成するかは別として、資格はあるだろう。


 そんな資格を有する人が、誰かいるだろうか。いないだろう。いないなら、やっちゃいけない。根本的な不信が、ここにある。どうにも信用ならんぞ、と思う。たためもせん風呂敷を拡げるな、と思う。うさんくさいと思う。


 そうした不信に近い疑問と同時に、僕のところにまで着実に忍び寄ってくる問題がある。放射性物質だけではない。労働の問題である。原発労働について、既に為されていた仕事が掘り起こされ、更新されていることから僕が知り得たことのひとつは、何重もの下請け構造があるということ。もうひとつは、原子力発電所が、生身の人間の被ばく労働で成り立っているということ。


 同じ労働者として連帯を……などときれいごとは言わないし、言えない。けれど、何かがおかしいと感じる。そのおかしさを、つかめそうでいてつかめない。だから、「原発でメシを食っている労働者や町の旅館はどうなる」と言われてしまうと言葉に詰まる。それがあたかも当事者を代弁するかのようにいう奴なら何とでも言い返してやるが、当事者自身に言われたら、何も言えやしない。そうした人にとっては、官邸前に行く僕のような人間は、遠いところで勝手に騒いで食いぶちを奪おうとしている奴だと思われるかもしれない。

 
 そうではないのだ、といいたい。けれど、それを言うだけの根拠も自信もない。低級な「嘘」はいくらでも吐くことが出来るだろう。そうしたくなければ、黙るしかない。「でも……」と言おうとしても、あとが続かない。


 そんなことを考えていくと、ある思いにぶち当たる。あなたと僕は、そもそも争わなければならないものどうしであるだろうか。あなたは僕の敵ではないし、あなたの敵は僕であってほしくない。敵の敵は味方、などといいたいのではない。あなたと僕に越え難い溝があるのなら、その溝について考えよう。その溝はいつ、どのように、誰がつくったのか。あなたも僕も、その溝をつくるのに少しばかり加担しているのかもしれない。それならそれも受け入れた上で考えよう。

 
 もしあなたと僕が、争う必要もないことで争っているのなら、そんな馬鹿らしいことはないじゃないか。


 「人間なら判るはずだ」なんていうような言い方はしない。人間でないような真似をするもの、それこそが人間であるからだ。ほんとうに偶然に、震災直後に手に取り、祈るようにして読んだ渡辺一夫の言葉は、今もなお僕にとって大きな指針であるのだった。

 
 そこから、さらに思考は進む。あなたと僕のあいだには、ただ何らかによって出来あがった溝があるだけだとしたら。あなたと僕を隔てるものは、強固に見えて、実はひょっとすると取っ払えるものかもしれないとしたら。

 
 あなたの問題と僕の問題は、固有でありつつも共通していると言える、そういう瞬間が訪れるのではないか。いや、実は既にそのようなものとしてあるものが、ただ僕たちの目にはそう映っていないというだけではないのか。この手触りを確かめることが、改めて「運動」なり「問題」なりを再考する目的となる。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-26 02:19 | 運動系 | Comments(0)

「2012・8・22、14:00-14:30」あるいは序論

 僕は本屋に勤めているが、今の仕事は裏方仕事で、表には出ない。バックヤードで本を運んだり、事務処理をやったりする。パソコンに向かうことも多い。データをチェックしたり、ネットでニュース速報をチェックしたり、時として、仕事をしているフリをしてだけのこともある。


 ネットのニュースの類を、そう使いこなせちゃいないけれど、わりあいにこまめに見ていることは確かだ。そんな普段通りの時間が過ぎていた8・22の水曜日の午後のことを記しておきたい。


 別に狙ったわけではない。たまたま、14:00少し前に「首相、反原発団体と会見」(精確な文言は忘れた)といったヘッドラインが目に入ってきた。ああ、今日だったか。延期になったという話は覚えている。なんだか今日になったという話を昨日見た気もする。


 最近金曜日には仕事の都合で官邸に行っていない。忙しくてデモも行っていない。どちらも、ここ一ヶ月くらいのことだが、もう、うすぼんやりとしているのかもしれない。自分の感覚に、キレがなくなっている気もしてくる。


 中継されるという。さすがに勤務時間中に動画を見るのははばかられる。たとえ音を消しても。しかし、それまで何の気にもしてなかったクセに、いざいまやっているとなると気になってしょうがない。僕の目にした記事の下の方には、TWITTER検索に飛ぶような画面があって、「会見」と「反原発」だったか、ふたつくらいのキーワード検索の結果が見られるようになっていた。


 様々な言葉が流れてくる。「誰誰がいる」「なんであいつが」「頑張れ」……。


 それらの言葉を、精確にはきっと誰かが調べているに違いないし、多分、何かの方法で再現することも出来るだろう。検索キーワードを変えればもっと色んな事が見えてくるに違いない。しかし、職場で、こっそりと、目を離さずに見ている僕には、わりあいに「離れた」距離からの言葉が多く流れているように思えた。

 
 「会見の最中は冷房を切れ」「しゃべりすぎ」「首相に話させろ」「茶番」「ガス抜き」「変な前例をつくるな」「態度が悪い」「国民なんてお前が言うな」「頬杖つくな」「感情的」……。

 
 悪意もあるだろう。善意もあるだろう。軽い気持ちで記された言葉もあれば、考え抜いた言葉もあるだろう。


 それらの言葉を見ながら、会見の場でどんなことが話されているのか、想像していた。ひとりひとりが、どんな顔でいるのか、思い描こうとしていた。頷かなかった首相の顔は、想像できた。他の皆さんの顔は判らない。激情に駆られた人もいるかもしれない。グッとおさえた人もいるかもしれない。


 その時の映像や言葉は、ちょっと調べれば精確に追うことが出来るだろう。けれど、今僕がしたいのはそんなことじゃない。そんな万人にとってたいせつなことをやるにふさわしい人は山ほどいるだろう。

 職場のパソコンを、いつのまにか食い入るように見ていた僕は、画面に流れる言葉を読みながら、いったい何を見ていたのか? 考える価値があるのはここだ。


 どんな人が会見の場に臨んだのか知らない。学者さんもいたようだし、おそらくはデモや官邸前でお見かけしたような人もいるのだろう。面識はない。けれど、この場に臨むまでのあいだ、相当な準備をしてきたに違いない。全ての中継を入れたのは画期的なことだろう。これは首相側にとって不利なだけではない。原発に反対する側(「反原連」という言葉はどうもしっくりこない。その理由はどこかで述べる)にとっても不利なのだ。オープンにすれば、自分たちのアラだって見せてしまうのだから。


 それでもなお、あの場を「開かれた」ものにしようとした努力に、まずもって深い敬意を表したい。野次馬的なコメントを見ながらまず思ったのは、そういうことだった。


 「一方的にしゃべりすぎ」という反応についても、これはやはり何らかの作戦というか、意図があったのだろうと想像するのは自然であった。20分という決められた枠、そこで主導権を握るにはどうするか。先手を打て。兎に角訴えよう。予め用意してあった文書を読み上げたのか、考えた上で放たれた言葉だったのか、いったいどういう言葉だったのか、僕は知らない。けれどその時、あの場に臨んだ皆さんは、自分自身であると同時に他の誰かでもある、そんな言葉を発していたという感覚だけが鮮明だ。


 感情的だと嗤うことは出来る。そんなものはかえってマイナスだということも出来る。それらは、一面では事実だろう。否定はしない。では聞こう。主義主張の違いはさておく。お前に代弁されたくはない、という気持ちもさておこう。そういう人は自分にとって切実な問題に置き換えてくれればよい。何かをほんとうに訴えようとして、「偉い人」に対峙したことはあるか。その場にはいない、おおぜいの人の思いや声を、託されてやってきたことはあるか。その時、お前はどのように振舞い得たか。「ここにバラがある。踊れ」。

 
 僕は、ある。妙に声が上ずってしまったこともある。変に卑屈になってしまったこともある。兎に角強気に出ようと虚勢を張ったこともある。いずれも、心底緊張することであった。僕には、彼女/彼らを嗤うことは出来ない。遠いところから何かを言うことは出来ない。代弁という表現もしっくりこない。ただ、その人の口から発してはいるが、その人だけのものだとは言えない、そういう言葉は確かに、ある。


 結果として10分おして終ったその会見の、終盤近くから、少しずつ会見に臨んだ皆さんへの「お疲れさまでした」「ありがとう」といった言葉が目立ったようだ。そうした人はツィートしている暇もなく、真剣に見入っていたに違いない。

 
 しかし、賛成すなわち善ではない。考えようによっては、より一層危険であろう。賛成か反対かも大事だが、外部から論評するのか、それとも、自らの内部をえぐるものとしてとらえられているかどうか。そのほうが、はるかにたいせつだと僕には思われる。
  
 
 何度となく考えては挫折し、少し進んでは立ち止まりしてきた「運動」あるいは「問題」について、ふたたび挑戦しようとしている、これはその矢先のことであった。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-25 00:28 | 運動系 | Comments(0)

『どんな時代もサバイバルする会社の「社長力」養成講座』

 小宮一慶さんの『どんな時代もサバイバルする会社の「社長力」養成講座』の動きが止まらない。いいことだ。自分のいる売り場はそうディスカバーさん系の商品に強い売場ではないが、堅調にずっと動いている。値段も手ごろだし、何より内容がいい。

 「会社は、お客さま、ひいては社会に対してよい商品やサービスを提供することで、社会に幸せを与えるものでなければなりません。そして、働く人にも幸せを与えるものでなければなりません」(P.146)


 当たり前のことだが、実態としてそうではない企業が存在している以上、やはり意味を持つメッセージであろう。今年上半期のビジネス書のベスト3には確実に入る好著。

 こうした本と『権力を取らずに世界を変える』とか赤木智弘さんの『「当たり前」をひっぱたく』などを一緒に読んでいるとなんだか自分でもわけが分からなくなってくる。もっとも、それが本屋の醍醐味なのだけれど、商人って何かしら? と考える今日この頃でありました。
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by todoroki-tetsu | 2009-05-11 10:22 | 運動系 | Comments(0)

「みんな幸せ」な関係に――ベルクさんに学ぶこと

 自分の売場のことだけでなく、会社としてもいろんなことはやっぱり日々あって、その度にさあ何をどうしようかと考える。結果何もできないことは多いし、むしろ僕が何かを悪化させているかもしれない。仕事をしながら、自分でもよく分からない。きっとそんなもんなんだろう。

 ただ、最近「みんなが幸せになれるやり方はないだろうか?」と考えたり、口にしたりすることが増えた。あれ、これはどこかで見聞きしたフレーズだぞ。そうか、ベルクさんだ、と気づいたのは、珍しく店内中ほどに陣取る(?)ことが出来た数日前のことだ。

 久々にゆっくりと壁を眺めていた折に目に留まった店長さんの文書は「みんな幸せ」な関係にと銘打ってある。厳しい状況の中にあってお客様のことを考え続ける、真摯な商人の思いが凝縮されている。激ウマのクラシックピルスナー片手に、思わず背筋を伸ばした。

 旨いものを食しながら商いを、あるいは人生を、学べる貴重な「場」、それがベルクさんだ。「おもしろくて、ためになる」(講談社さん)ではないが、自分の棚・売場も楽しさ・面白さにプラスαを提供できるような、そんな「場」にしていきたい、と思う。『新宿駅最後の小さなお店ベルク』の世界が、現在進行形で体感できるのは幸せだ。

 これからも勉強させてください。末永く営業できる環境・条件であることを心底、祈っています。
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by todoroki-tetsu | 2009-04-30 17:07 | 運動系 | Comments(2)

『森林と人間』をビジネス書として読む

 かつて自分が住んでいたところに程近いこともあって、石城謙吉さんの『森林と人間』を手に取ってみた。苫小牧研究林(旧名苫小牧地方演習林)のお話である。

 自然科学の話は正直さっぱり分からないが、たまにこうした本を読むとまったく未知のことばっかりで実に楽しい。この本については地の縁があるので必要以上の親しみを覚えて一気に読了した。

 中央集権的な時々の施策で荒廃してしまった森を、熱意と信念でよみがえらせていく姿。石城さんの筆致は極めて冷静であるけれども、大変な苦労をされたのだと思う。が、一方で森に適切な手をいれ、スタッフや市民の皆さんと一緒に取り組まれる描写は本当に楽しそうだ。

 こんな節がある。森づくりの方針をしっかりと定め、具体的な手立てを講じていった時のこと。今までスタッフが行っていた間伐(人工林を育てるために不可欠なのだそうです)を、スタッフの力をもっと別のところで発揮してもらいたい、との考えから「立木処分」(スタッフが選定した間伐木をそのまま売却し、業者さんに伐採してもらう方法のことだそうです)で進めたら、

 「この立木処分に対して、苫小牧では細いカラマツを大根よりも安く売っている、という笑い話が聞かれた(中略)。このことは、苫小牧地方演習林の森林施業全体が、天然林の大木を盛大に伐採するのが立派な林業で、貧相な広葉樹林や人工林で収入も上がらぬいじましい択伐や間伐を繰り返しているのはとるに足らぬ林業、という当時の評価の中で進められていたことを示している。それにもかかわらず、職員・作業員が意気軒昂として仕事を続けられていたのは、荒廃した森を自分たちの手で甦らそうとしている誇りがあったからだと思う」(P.105)


 誇りとかやりがいとかいった言葉は時として危険だけれども、こうした誇りは比較的まっとうなものだろう。

 明確な目標、目標の社会的正当性に裏打ちされた現場の力、といったところがポイントだろうか。ビジネス現場でも十分当てはまるというか、学ぶべきところだと思う。
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by todoroki-tetsu | 2009-01-30 23:59 | 運動系 | Comments(0)

ベルク@朝日新聞

 昨日1/15の「朝日」、ベルク店長の井野さんが登場されていてびっくりした。

 これまでも「最後の決め手はお客様」、また直近では二回にわたって井野店長のお話をじっくりと拝見することが出来たけれども、全国紙に出た意味は大きいだろう。

 これを機会に『新宿駅最後の小さなお店 ベルク』がさらに売れて欲しいな、という思いはもちろんある。が、それだけではなく、接客に携わる者として、井野店長の姿勢のブレのなさ、言葉だけの「お客様第一」ではなくて、プロとしてお客様と真剣に向き合う姿は本当に勉強になる。

 こういうお店が、商売が、明確な理由もなく続けられなくなってしまうとしたら、やっぱり、何かがおかしい、と思う。

 
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by todoroki-tetsu | 2009-01-16 23:08 | 運動系 | Comments(0)

吉本隆明×糸井重里「テレビと落とし穴と未来と。」

 年をまたいでしまうが、どうしても気になるし、分からないところもふくめてすごいや、と思ったので。年末の「ほぼ日」で連載していた、「テレビと落とし穴と未来と。」のこと。

 「05:価値、無価値、反価値」では、糸井さんが出版界の状況について触れておられる。 「フリーターズフリー VOL.2」のアスランとフリターズフリーのみなさんとの座談会「協同労働と書籍流通のオルタナティブのために」、あるいは「ロスジェネ 第2号」での大澤信亮さんのエッセー「ロスジェネ的オルタナティブ市場構想」などが連想され、さあ、さて書店員としてはどう考えればいいのか、と考えさせられる。
 
 仕入正味の問題とか、送料負担の問題とか、返品の問題とか、色々とあるわけで、それらはそれらとして色々考えなければならないのかもしれない。それはそれとして、でも、要するにもっと売っていかなきゃ始まんないんじゃないか、という思いもあって、糸井さんが「新しい価値を生み出さなきゃならないし、そのお客さんを作っておかなきゃならない」とおっしゃっていることに共感もし、また、ずいぶんと難しいことだぞこれは、と思った次第。

 続いて、「06:文化はいいことだ、の落とし穴」 。「ふつうの『タダ』じゃダメなんですよ」という吉本さんの言葉もすごいが、ずしんときたのはここでも糸井さんの言葉。

 「雑誌もテレビも、原材料費を安くして
 どうやって広告を取れるように完成させていくかが
 目標になっているところが
 いまはあると思います。
 それがこの先、どうなっていくかというと、
 それこそ、30人でも
 人を集められる力がちゃんとあるかどうか、
 というようなことが、
 重要になっていくとぼくは思います。」


 企業宣伝の一環としての出版と、それに適合するような形で書店の棚を提供するようなビジネスモデルというのは以前からあったが、最近はとみに増えてきた。それで売上が確保できるなら、という反面、結果どう展開したところで関係者しか買っていかないような本というのも少なくない(もちろん、こうした展開がきっかけで一般に広がっていく本というのもないわけではない)。いきおい広告ビジネスと書店との関係について考えざるをえないので、大変にかみしめた言葉である。

 糸井さんがここでおっしゃっていることで実にリアルなのは、「30人」という数。肩書きや仕事のしがらみなく、本当に30人集められたら、これは相当にすごいことだと思う。サイン会やイベントなんかもやったりするから、こうした数の感覚は自分なりにある程度イメージできる。

 いずれも自分の関心にひきつけすぎているだけなんだろうと思うが、何か手掛かりがこのお二人の言葉のやりとりの中にあるような気がしてならない。

 もっとも少ない文字数で、もっとも多くのことを考えさせられる言葉を発することの出来る稀有のお二人。1/4のNHK教育が楽しみである。
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by todoroki-tetsu | 2009-01-01 17:00 | 運動系 | Comments(0)

中村義一「仕事のはなし」(「週刊文春」10/23号)

 今週の「週刊文春」の「仕事の話」(木村俊介さんが聞き手)、中村義一さんのお話を興味深く読んだ。

 『魂の仕事人』でも中村さんのお話は面白かった。やはり「職人」の話は肝がすわった感じがして好きだ。

 特に今回グッときたのは下記。

 
「職人は工夫で生きていくものだ。だから新入社員に何をしたらいいですかと質問されると腹が立ってね。俺だってわからねぇんだ。与えられた仕事をやるなら機械に敵わないんだ。わからねぇでいいからやれ、と無理に仕事をさせたらこちらに反応の余地も出てくる」

 
 そうか、「俺だってわからねぇんだ」って言っていいんだ! 先にいた人間も新入社員もその意味では同じなのだ。もちろん、だからこそ、結果を出した人間が偉いわけであって、年功序列など意味はない、ということなのだが。

 さらに、こんなことまで。

 
「高校生が幼稚園児に石をぶつけられても笑ってものを教えられるでしょう。教えられるって、バカにされてるってことなんだ。だから若い人は同世代の友人と、本気でぶつからなきゃ」


 強烈だが、そういえば自分も同期の連中には負けたくない一心でやっていた時があったし、それは今もどこかしらに残っているな、と思う。

 そうした条件が今の自分の新入社員にあるかどうかは分からないが、うまく方向付けていければと思う。
 
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by todoroki-tetsu | 2008-10-17 23:09 | 運動系 | Comments(0)