カテゴリ:未分類( 97 )

楳図かずお『14歳』

 先ごろ完全版といえる全4巻が完結した。4巻目には楳図先生書き下ろしが加えられているという以上、文庫版は持ってはいるが買わないわけにはいかない。


 いやはやもうすごい迫力であった。なぜこの人はこんな絵を描けるのだろう、と何とも幼稚だがしかし誰しもが抱くであろう感想を強く持ち直す。

 
 1990年連載開始当初はまだ僕は中学生で、クラスに好きな奴がいて回し読みさせてもらっていた。けれどしばらくブランクが僕にはあって、連載終了の1995年よりまだずっと後だと思う、通読したのは。


 今回読み直してみて、あのラストの意味が、ああ、こうならざるを得ないのだな、と切迫感とともに感じることが出来たのだが、そこに到るまでのいくつかを拾ってみる。


 2巻の終りの方におさめられる「ざんげ」というエピソード。地球をいためつけてしまったことへの後悔を各国首脳が語る場面。日本国総理はこう語る。


 かつて日本は世界中から嫌われたことがあった!! けれど日本はいくら考えてもそのわけがわからなかった!!

 日本の政治家が法律と金の二つしか、物を考える時のモノサシを持たなかったからだと気がついたのは、東京大地震で何もかも潰れた後のことだった!! 何一つ、残しておくべき芸術が無かったことに気がついた。けれども再度日本は同じことを繰り返した。以前にもまして大発展をとげた……何かを忘れたままで!!

 だが、その時にやっと気がついた。わたし達が忘れていたものはもう一つのモノサシ、“美意識”というモノサシだったということを!

 わたし達は常に、法律とお金というモノサシ以上に、美意識というモノサシを持つべきだった!!

 美意識の伴わない法律はうそだ!! 美意識の伴わないお金は悪だ!! 美意識の伴わない科学は破壊だ!! 美意識を伴わない学問はクズだ!!


 美意識を、何かに置き換えてもよい。ここで思わず人間と言いそうになってしまうが、少し危険がある。美意識を伴わぬ法律やお金に、人間ほど左右される存在もまたないのだから。じじつ楳図先生はこれでもかというくらい人間の醜さを描き込む。

 
 ストーリーが少し進むと、「もの」とよばれるクローン=人工人間が誕生するシーンになる。この商品化を迫る人物が吐く台詞。


 クローン人間を商品として売り出すなんて、かつてあったでしょうか!? いや、かつて人間を奴隷として売買したころがありました。人間は本質的に人間を商品として扱うことを夢みていたにちがいない。 

 
 こういうところからカントを理解しようとするのはよくないことだろうか。しかし、「人間は本質的に人間を商品として扱うことを夢みていたにちがいない」という断言は恐ろしい。ずっと隠していたものを暴かれてぐうの音も出ない、そういう心境。

 
 「もの(人工人間)」による殺人プロレス、そのおぞましい光景に熱中する大人たち。しかし、画面を通じて呼びかけられ、反応する未来の担い手たる子どもたちの姿。『漂流教室』を例に出すまでもなく、なんとこう子どもたちのひたむきさ(醜さも当然に含まれる)がいたく迫ってくることか。大詰めに近いところで子どもたちのリーダー、アメリカはこう呼びかける。


 たとえどんな破滅がやって来ても、ぼくは破滅を信じない!! 

 なぜなら、身を滅ぼすのが目的で生まれてきた生物は、この世のどこにもいないからだっ!!

 ぼく達は生きるんだ!! そして進化するんだ!!

 ぼく達は神に進化しよう!! 生きて神になるんだ!! 
 
 そして、この世の不幸を一掃しよう!! 地球を緑に変えよう!!

 
 生きることへのひたむきさ。神の観念……どうにも批評を読む自分への問いが重なってくるようで仕方がないのである。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-12-24 22:40 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その八

 5:「かつて、ぶどう園で起きたこと」は、評論のタイトルにもなるくらいの、キモの中のキモの部分である。その分、たいへんなのだ。「スピード」の心象をつかもうとしたとき以上の、エネルギーが必要だろう。そう考えながら読むのは、しんどいこともあるが、実に面白いものである。読むために書く、ということを実感する。


 そもそも、このぶどう園の挿話は、マルコ伝とマタイ伝とに記される話である。注釈には「など」とあるから、他にもぶどう園のエピソードはたくさんあるのだろう。マルコ伝には殺人のことが記されており、マタイ伝には賃金の話がある。これらを一緒にして考えてよいものかどうかは知らない。けれど、ぶどう園の挿話はおそらくたくさんにあるのだろうから、数々に語られるエピソードをつなぎ合わせてひとつのイメージをつくるのは悪くないのだろう。


 ……と、ここまで昨日のうちに書くだけ書いてみて、ほおり出してしまった。どうやって読んだものだか、どうにも見当がつかん。


 僕は今回再読するにあたって、はじめにこう記しておいた。


 ハナから判らないだけでなく、何も感じないのであればまだあきらめがつく。何かがありそうだという感覚だけは感じ取ることが出来る作品というのは、ずいぶんと始末に悪い。言っちゃあ悪いが、腐れ縁のようなものだ。


 このセクションの前半、わずか2頁足らずの記述を、どう読んだものだかさっぱり判らない。しかし、判らないけれども、何かがありそうだとは感じ取れるのだ。ああもう。こんなに厄介なことがあるか。


 あけて今朝。新聞をひらく。「毎日」には湯浅誠さんの記事を見つける。「『無縁』想定した備えを急げ」と題するこの記事では、幸福度調査日本一に輝くという福井県を訪れた際の話が中心となる。記事の中ほどに次のような文章を見つけ、ハッとする。下線は等々力による。

 
 人口減少、生産年齢人口減少によって走る向きを逆転させてみると、前の者が後に、後の者が前になる。前近代的、古臭いと言って切り捨ててきた価値が見直される。


 思い出した。たしか井上ひさしさんのエッセイにも「遅れた者が勝ちになる」だったか、そんなタイトルがあった。論法はこの湯浅さんとほぼ同じである。

 
 そう、マタイ伝における「ぶどう園」の挿話は、「あとの者は先になり、先の者はあとになる」というものであった。ラスキンに始まったことではなかろうが、この言葉から、現世における「改良」を読みとろうとした人は少なからずいるだろう。そして、浅尾さんは、その来歴からすれば、井上ひさし―湯浅誠のラインに連なってもなんら不思議はない。


 ところが、この評論ではどうだろう。主にマタイ伝での挿話を引いた後、即座につなげられるのはヴェイユの姿である。

 
 ヴェイユのようなひとこそが地獄に落ち、最後の被救済者となる。

 そう、「ぶどうの房を引っぱったりすれば、ぶどうの粒はみな地面に落っこちてしまう」。

 すなわち私たちは、ぶどう園における連続殺人事件から「あとの者は先になり、先の者はあとになる」という、世界が滅びる際のルールを導き出すことができる。



 「あとの者は先になり、先の者はあとになる」というフレーズが醸し出す雰囲気の、語り手によってなんと異なることか。かたや現世での展望、かたや滅びの世界。浅尾さんがここから現世での展望を直接的に引き出すことを、しないのか出来ないのか、判らない。しかし、そうさせない何かが存在していることだけは、ここまで読み進めてきた自分にも、感じ取ることが出来る。それは、この書き手が、「「ロスジェネ文学」の主人公は、みんな真面目で、かつナイーブときている」といい、「彼らは、流通過程でふたたび過酷な労働と暴力に出会う。彼らは、それを逆らえない必然として一身に引き受けている。そうして密かに傷つき、悲しみに暮れて、ひとり声を殺して泣いているのだ」と記し、「私には、主人公たちを『もっとがんばれ』『愚鈍だ』などと言って叱ったり、笑ったりはできない」と書きつける、そういう人であることを、既に知っているからだ。


 マタイ伝でのぶどう園とマルコ伝でのぶどう園とを結び付けて論ずるのが、一般的なことなのか、浅尾さんの独創によるのかは知らない。しかし、少なくとも今ここではふたつは結び付けて考えられなければならない、そのことだけは確かだ。


 かつて、吉本さんは「マチウ書試論」において、マチウ書=マタイ伝の作者の、怨念ともいうべき熱情を掘り起こしたのだが、そこでえぐりだされたのはマチウ書の作者個人の姿ではなかった。「マチウ書試論」を引こう。

 マチウ書の作者が、ここで提出しているほんとうの問題は、現実の秩序のなかで、人間の存在が、どのような相対性のまえにされされねばならないかという点にある。

 ゆらいこの課題はけっして解かれたことがない。あらゆる思想家がみな見ぬふりをしてきただけであり、すくなくともマチウの作者は、幼稚で頑強なこの課題に、はげしくいどみかかったのである。


 僕もまた、このように浅尾評論を読み進めたいと願う。まぎれもないひとりの作家個人に宿る精神に、近づきたいと思う。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-08-03 23:10 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その七

 4:「作品分析――副詞『あらかじめ』の恐怖」の締めくくりが、『悪人』を「資本論」に模しつつ、しかしその先を切り拓いていく批評となっているのは実に示唆に富む。作品と批評の幸福な出会いが、ここにはあるだろう。


 単行本とはいえ2頁少々である。ひとつを引こうとすると、結局全部引かざるを得ないようになってくる。それでもここでは「嘘」の一点に神経を張り巡らせることにしよう。


……地方の経験浅い保険外交員「佳乃」が、流行り化粧のような「嘘」をつくことは、当然の行為――ありふれた風景である。その景色が、偶然をねじ伏せるような必然の力に貫かれているように見えるところが、怖い。


 
 これ以上何を付け加えることもないだろう。これは僕のことであり、あなたのことだ。ありふれた風景とは、すなわちわたしたちの日々の暮らしや労働や、真面目さや笑いや、涙のことだ。時には欺き、時には欺かれ、時には叩き、時には叩かれ……それらは偶然のように思えるけれど、必然に貫かれていること。


 いや、そう決めつけるのはやめておこう。「偶然をねじ伏せるような必然の力に貫かれているように見える」と、浅尾さんの言葉を忠実に理解するよう、努める。


 このようにしてニッポンの青年たちは、まさに見えない敵によって追い詰められている。確かなことは、資本は「嘘」にまみれており、その是正に振り回される私たちもまた「嘘」をつく人間・被造物であるということだ。

 

 どっちもどっち、なのではない。圧倒的な力の差がある。かといって、「アメリカに比べ、ソ連の核実験の灰は……」式の倒錯した評価とも無縁だ。ここはあくまでただ単に、事実を淡々と述べているに過ぎない。ほんとうに「確かなこと」しか述べていない。


 この重みを、しっかりと受け止めること。この二つの引用のあいだに、次のような一文が挿入されていることを忘れない。


 私には、主人公たちを「もっとがんばれ」「愚鈍だ」などと言って叱ったり、笑ったりはできない。



 この一文がなくても、文意はかなりの程度通じよう。それではダメだったのだ。「密かに傷つき、悲しみに暮れて、ひとり声を殺して泣いている」彼らに、どこまでも寄り添おうとする作家には、どうしてもこの一文が費用だったのだ。読み手がどうして見過ごすことが出来よう。


 さて、これで「スピード」と「嘘」という、この批評のカギとなる言葉について追ってみた。そこであえて除外したのは、「あらかじめ」ということであった。


 副詞「あらかじめ」とは、唯物論者の浅尾さんが「神の問題」を、そうとは呼ばずに考えを前進させるために用いた言葉であり、「資本」と同じくらい重要な位置を占めている言葉である。そこを飛ばしたのは、極めて個人的な理由による。

 
 この「あらかじめ」という言葉を、僕は職場で実に多用している。「あらかじめ需要を予測せよ」「あらかじめ準備せよ」「あらかじめ発注せよ」……僕の業務文書の中でもっとも多い副詞だろう。それは明らかに、この評論を読んでからのことである。つまり、この、「ロスジェネ文学」を真正面から論じた評論、資本の暴力にさらされながら生きるわたしたちにとっての文学とは何か、を論じた評論を、ものの見事に換骨奪胎し、「資本」のスピード遂行に役立てているというわけなのだ。


 しかし、同時に、「あらかじめ」と自分に言い聞かせ、またスタッフにも叱咤するそのとき、何とかして主体的であろうとする自分、を想定しているのも事実である。そんなものは所詮「ブタ箱の中の自由」(岡林信康)なのかもしれない。嘆いていてもはじまらない。されど、悟りきるにはまだ早い。

 
 そんなわけで、「あらかじめ」という言葉については今少し括弧をつけさせてもらいたいと考える次第であった。



 
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-08-01 23:09 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その五

 4:「作品分析――副詞『あらかじめ』の恐怖」の冒頭では、「生産」の暴力が、今までとは違った表現で語られる。


 かつて生産現場における勇猛かつ無政府主義的なファンタジーを牽引した「希望」は、支配―被支配という等価交換のなかに潜む剰余価値G’の「山分け」、すなわち平等な分配があり得るというものだった。


  
 これをふまえると、「やられたらやりかえせ」という言葉はまた違った印象を持って迫ってくる。あるいは、吉本さんの「ちいさな群への挨拶」を連想するのは、読者の勝手に過ぎようか。

 ぼくはでてゆく
 すべての時刻がむこうがわに
 ぼくたちがしはらったものを
 ずっと以前のぶんまでとりかえすために



 浅尾さんの言葉はさらに先に進む。

 
 私がこのような「希望」の型を「資本論幻想」と呼ぶのは、人間という変数の閾値が少しも勘定に入っていないからである。ひるがえって現代ニッポンの「ロスジェネ文学」は――『資本論』に忠実ではあるが、主人公たちが人間の連帯を安易に信じていないという点で、かなり深いリアリズムを獲得している。



 「平等な分配」にむけて、人間どうしが連帯することの困難。本来連帯すべき人間どうしが、何かによって分断されているという認識ではおそらくない。もともと連帯なんて出来ないし、しないじゃないか。前提が逆転する。そう、「黄金律は、天地開びゃくの第一日目から存在しており、私たち人間の目に見えなかっただけである」。


 彼らは、流通過程でふたたび過酷な労働と暴力に出会う。彼らは、それを逆らえない必然として一身に引き受けている。そうして密かに傷つき、悲しみに暮れて、ひとり声を殺して泣いているのだ。



 エドワード・ホッパーの作品から感じ取ることの出来る寂しさをも思わせる。僕はこうした言葉を記す人を、心の底から信頼する。一言一句を盲目的に信頼する、という意味では決してない。書き手と商売人である書店員という関係上、そこにはどうしても「仕事」「カネ」の関係が介在する。あらゆる緊張関係が発生しうる。しかし、それでもなお、この一文を記しうる書き手を、信頼しない理由は何一つありはしない、そう言い切る。こうした文学者と同時代を生きることの幸福が、ここにはある。

 
 とはいえ、この幸福は絶望の中のそれである。

 
 彼/彼女の後ろ姿から伸びているのは、死の影と副詞「あらかじめ」の恐怖である。


 
 この正体を突き止めるには、ヴェイユ―吉本隆明から、書き手と読者がともに学びとることの出来る以下のような着想が必要である。


 ……「ロスジェネ文学」を論じるにあたっては、物語から絶望が引き出され、「神の問題」に直面するはずである。

 しかし唯物論者の私は、いまここでは「神の問題」とは呼ばない。「資本」、あるいは副詞「あらかじめ」という表現に言い改めながら、「溜めのない世代」が抱える苦しみと悲しみを、この身に引き寄せてみたい。

 
 
 唯物論者、という言葉にひっかかる必要はないだろう。「神の問題」すなわち「信仰」にかかわるもんだいを、そうではないアプローチで考えていこうという、それだけのことだ。そのそれだけのこと、が大事なのだが。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-07-30 14:24 | Comments(0)

7.29脱原発国会大包囲(その二)

 デモの隊列は時に区切られ、時に間延びさせられ、短いコースでもえらい時間がかかった。東電本店前と経産省前にそれぞれ、「ここが東電ですよ」「さっきまで経産省のあの部屋には電気がついていました。中にいる人に声をきかせましょう」といったガイドをしてくれる方々がいるのがおもしろい。

 
 再び日比谷公園にやって来てから、国会方面へと向かう。おまわりさんが「この後は国会に向かって下さい」とアナウンスしてくれているのが面白い。

 
 国会に向かってぞろぞろと人が集まっていく。途中「正門前が一杯ですので官邸前へ」というお巡りさんの誘導があったのだが、少しすると別に何も言われなくなった。いろんな情報や思惑が錯綜しているのだろう。


 ぐるりとまわりを見ることが出来るかな、と思ったが、甘かった。国会正門前に近づいたところでほぼクギづけ。国会正門を背にして右斜めのあたり。もう少し進みたかったが、にっちもさっちもいかない。


 歩道に設置されたバーとコーンが邪魔に感じられてきた時、おばちゃんがさっさと片付け始めたのはさすが、と思った。確かに込み合っちゃあいるけれど、戻ってくる人にはちゃんと道をあけていたし(もちろん困った人もいるかもしれない)。


 ひとつの鉄柵にひとりの割合でお巡りさんがつく。車道をあけろ、という声も聞こえる。再稼働反対のコールと「皆さんの抗議活動は歩道で行うものです」というお巡りさんの絶叫ともあいまって、ああ、これが「るつぼ」というものなのだろうな、と思う。

 
 人の波は車道をはみ出し、車や自転車でグルグルと回る人、路線バスから手を振る人。様々なもみ合いの中で、結局は僕の近くの車道もあけられた。但し、あの大きな警察車両で何台も国会正門前を塞いで。


 鉄柵も、警察車両も、ただのモノである。再稼働反対、原発反対を主張しに来ているのだから、そうしたモノは関係がないといえないこともない。けれど、すごく違和感があった。交通整理の理屈は判る。けれど、それ以上に、おかしなことをおかしいと言いに来た人間を、すごくないがしろにしている気がしたのだ。


 「この鉄柵は皆さんをケガから守るためなんですよ」と説得するおまわりさんに、あるおっちゃんはこう言った、「原発の方がよっぽどあぶねぇんだよ」。


 おまわりさんの言うことも、ある意味で「人間の理屈」ではある。たしかに市民の安全を守るという点では重要だし、高圧的なおまわりさんはいなくはないけど、そんな人ばっかりじゃないというのも、実際に見て判っている。けれど、その次元じゃない。今ここの車道の安全と、原発の問題とは、やっぱり等価とはいえない。どちらに射程の深さがあるか、という問題だ。もちろん、だからといってどちらかが全面的に正しくて、どちらかが悪だなんて単純な問題でもないと思うけれど。


 鉄柵は、警察車両は、何を守っているのか。こうした光景を、ちゃんと目に焼き付けておこう。
 

 20:00を過ぎたあとも、すぐさま帰る気にはならず、少しぶらついてから帰る。スタッフの方々がごみ袋を持って巡回しておられた。こうした人が、ほんとうに信頼できる人なんだろう。「主催者」に対する様々な物言いがあるのは知っているし、僕自身よく判らないことも多い。けれど、何か言うならせめて一緒にゴミ拾いをすることから始めなければならないことぐらいは、自分に課しておこう。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-07-29 22:58 | Comments(0)

7.29脱原発国会大包囲(その一)

 暑さのせいか、持病のヘルペスを発症してしまった。夏の日中に出歩くのはよくないのだが、行かないわけにはいかなかった。もっとも大事をとって、午睡をしてから出かけたのだけれど。

 
 16:30過ぎに内幸町の駅から地上へ。出発しようとするデモ隊と、その向かい側に陣取って反/脱・原発へものいいをしたいのだろう人々の群れ。

 
 「運動」の場ではどのような立場・主張であれ、ともすると激昂してしまうし、品がないと思える言動をとってしまうことがある。許す/許さないなどと言えるものではない。


 では、どっちもどっちとすましていいのか。ある種の挑発であるから無視を決め込んでもいいんだが、どちらに寄り添うべきか迷った時に、何が判断基準になるだろう、とふと考えてみた。こうしたことは、いわば主義と主義のぶつかり合いで、自分が明らかにどちらの主義かを決めている場合はそれでよい。そうでない場合はどうだろう、と。

 
 そんなことを考えながら公園の中に入ってみる。なかなか出発しないデモを、それはそれとしてのんびりと待ち構えたり、すでに太鼓をたたいて踊り出していたり、とみんなさまざま。でも、みんな暑さには辟易しているけれど、表情が生きている。語弊を恐れずにいえば、みんああかるい顔なのだ。


 こうした顔をしている人が多い方に、信頼を寄せたほうがおそらくは間違いが少ないのだろうと思う。


 しばらく様子を見ていたが、なかなかデモの出発がゆっくりだから、ええい、別に個人で来てるんだ、どこに紛れてもよかろう、と、まさに出発せんとする隊列にもぐりこむ。早々に、例の反/脱・原発へものいいをしたいのだろう人々の群れにぶち当たる。聞くに堪えない罵詈雑言で、支離滅裂なのは別にしょうがない。


 が、ひとつだけ僕が本気で嫌に思ったのは、以下のようなものいいだった。


 「子どもを守れって? どうやって守るんだよ。言ってみろよ」


 
 これを口にした人が、どういう来歴をもつ人なのか、僕は知らない。実際に、例えば福島で子育てをしておられる方だとするならば、ちゃんと聞かなきゃいかんだろうとは思う。だが、そのような経験を現にしておられる方が、こんな挑発的な言い方をするとはちょっと考えにくい。誰か何かご存じだろうか。声からして女性だったように思うのだけれど……。


 どちらが、人間の生活に寄り添おうとしているか。どちらが、命をたいせつにしようとしているか。その具体的な方法は様々あるだろう。けれど、そうした気持ちが果たしてあるのかどうか。つまり、どちらが「人間の都合」(小田実)に近いのか。

 
 あかるい表情と「人間の都合」とは、無縁ではないはずだ。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-07-29 22:32 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その二

 論旨は順に追いつつも、前後しながら、しかし丹念に一行一行を読んでゆく、そうした作業を地道に積み重ねていくほかはない。それにしても今日は、暑い。

 
 1:「ロスジェネ文学」は、ほんの10行余りで終わる。導入といえば導入だが、いきなり難関にぶち当たる。

 「ロスジェネ文学」とは、「溜めのない世代」の物語で、おそらく「神を待ちのぞむ」。すなわち、若者たちの貧しさと不当に損なわれているという心象のスケッチは、この世界が――私たち人間こそが、もっとも信じるに値しない被造物であるという疑念をもたらして、ふたたび「神の問題」と向き合わせる。



 なぜここに「神」が登場するのか。そもそも、ここで言われる「神」とは何ものか。自然なのか絶対者か、それとも、ほんとうに文字通りの神なのか。だとすれば、それは唯一神なのか多神なのか。判らない。ほんとうに判らない。


 神と人間……吉本さん流に言うなら「絶対的存在」と「相対的存在」であろうか。いやまて、「被造物」とある。何ものかが、何ものかを造ったのだ。その関係は、例えば、逆転しうるのかどうか。


 私たち人間こそがもっとも信じるに値しない、というのは、なんとなく判る気がするが、それとて、導入でいきなり判った、といえるほどの材料はない。


 様々な疑問を抱えつつ、次に進むことにしよう。疑問によって生じた空白を、すぐさまに埋めるようなことは出来る限りしないようにしてみよう。


 
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-07-26 22:00 | Comments(0)

脱原発10万人集会にて

 どうにも体調が芳しくないこの数日。いくつかの、どうあっても避けることのできなさそうな問題が連発し、しかもまだ何の解決も見いだせていないことが影響している……と思っているのだが、ただの暑気あたりかもしれない。

 
 というわけで、今日も出遅れてしまった。しばしばデモだの集会だのに向かう前に覚えるだるさとも似ている。身体がどこかで拒んでいるのかもしれない。が、電車に乗ってしまえばどうということはなくなるのだから不思議だ。

 
 原宿駅がえらいこと混雑している12:30、まあ、急ぐこたあねぇやと人の流れに身を任す。炎天下というにふさわしい。色んな団体やら車やらで歌だのアピールだのがさかん。


 別段あてはハナからないが、出来ることなら武藤類子さんのお話は伺いたいと思っていた。代々木公園でやられたイベントに参加したことなんてあっただろうか、と思うくらい記憶のかなた――国民大集会といったか、あれはたしかここだったような気もする。20年近く前だからもう覚えていない――。なので、人数がどうだとか比較は出来ない。えらいこと人がいることだけは判る。


 メイン会場らしきところにようやくたどりつくと、ちょうど大江健三郎さんのスピーチが始まるところであった。相変わらずの朴訥とした口調。しかし、その中には力がみなぎる。

 
 再稼働が決まって落ち込んだ、という大江さんは、中野重治の作品「春さきの風」を想起したという。簡単に粗筋を紹介したのち、大江さんはこの作品の末尾、


 「わたしらは侮辱のなかに生きています。」


 との一節を引いたのだった。
 

 昨年、「わたしたちをばかにするな」と語った武藤さんの姿がすぐさま思い起こされた。これらの言葉を、今生きている人間をしていわしめる何かがあるような気がしてならないでいる。


 それから後、幾人かのスピーチが続く。兎に角暑いのでそれとなく木陰らしいところに移動したりしながらとこちらも忙しい。ペットボトルに詰めてきた水はすぐさま空になってしまった。

 
 いよいよ武藤さんのスピーチ、という段になって、乱入してきた人がいた。舞台が見えないので声と音でしか判断できないのだが、明らかにハプニングのようであった。きっとどうしても言いたいということがあったのだろう。思いつめてもいたのかもしれない。が、間もなくマイクを切られ、おそらくは舞台の外へと連れ出されたようだ。

 
 経産省前であったり、官邸前であったり、東電前であったり、そうしたところで絶叫としかいいようのない声をあげている人を見てきた。聞くに堪えない罵倒も中にはあった。そんな言い方じゃ伝わらない、というのは圧倒的に正しいけれども、簡単だ。そう表現するほかないところまで追いつめられたことを想像すると、僕にはもう何も言えなくなってしまう。それはそうした言動を支持する/しないという以前の問題としてある。


 しかし、今回の乱入者は残念であった。他ならぬ武藤さんのお話を邪魔するような格好になってしまったのだから。やり方を「間違っていた」という資格は僕にはないが、少なくとも「まずかった」ことは確かだろう。


 ややあって、武藤さんが登場した。武藤さんのお話を直接に伺ったのは、数十人程度の集まりの一回だけだったように記憶している。この方のすごいところのひとつは、そうした数十人程度の集まりでのお話しぶりと、10万人を超す場所でのお話しぶりとが、ほぼ変わらないことだ。後者の方がどうしても多少は演説・スピーチめいたものにはなるけれども、ひとりひとりに語りかけるような、そういう口ぶりは変わることがない。

 
 ほんの数時間前のことなのに、もはや話の細部は自力で思い出すことが出来ない。しかし、お話をおおぜいの人と一緒に、直接に「聞いた」という体験だけは、強く、深く、頭の中に、あるいはこういってよければ「魂」の中に、残っている。


 武藤さんはおそらく、自分が何かを語るというお気持ちでおられるのではない。誰かに、何かに、陰に陽に突き動かされ、あるいは守られながら、言葉を発している。そのようにご自身で自覚されているのではないだろうか。それは武藤さんを通じて、聞き手、いや、同じ時代を生きる僕たちひとりひとりに響いてくる。

 
 かつて武藤さんの言葉について考えた時、僕はこのように記したことがある。


 武藤さんを絶対的存在として称揚してはならない。同時に、貶めてもならない。当たり前のことだが、どちらも失礼だ。確かにすごい人だと思うけれど、そのすごさは自分も生活し、働いている同じ社会・同じ時間と地続きであるというべきだ。自分とは無関係の地平にある存在なのではない。このことは何度でも思い出す価値がある。そして、そうした人が発した言葉が突き付ける絶対性が、確かにあるということを記憶にとどめよう、出来る限り。



 今は少し手触りが違ってきている。例えば、こうした文章に接した時の感覚に、近い。様々な違いを捨象しても、なお。


 何をなすか、ではなく、何を受け継ごうかと考え、世界をみるとき、私たちははじめて自身に準備されている「遺物」の豊かさに気がつくのではないか。別な見方をすれば、生きるとは、自己の願望を成就することではなく、先人の生に、いかに受け継ぐべきものを見出すか、ということになる。
                                 若松英輔、『内村鑑三をよむ』、P.48


 
 相対的存在に宿る絶対性、というのが僕がこの数年ぼんやりと考えてきたテーマであったが、どうやら少しは問いを進めることが出来そうな手触りが、ある。それは、数多くある問いや課題を、貫くことのできる「棒のごときもの」となるものかもしれない。

 
 武藤さんのスピーチのもたらしてくれた「体験」を、今一度かみしめることにしよう。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-07-16 17:47 | Comments(0)

金曜日から日曜日へ(その二)

 うかうかしていると、すでにもう一度金曜日も日曜日もめぐって来ていて、さて、僕が記そうと思うのは2週ほど前のことなのだけれども、そのように日々を連続したものとして考えてよいものかとふと迷う。先週あったことは今週もあり、来週もまた……。そのように繰り返す、といつの間にか見なすことで何かを手放してはいないか。


1.
 6/29(金)のあと、こんなことを考えていた。

 「知識人とよばれる者、言葉を発せよ。懐手で眺めているくらいなら、動け。われわれに力を与えよ。寄り添え!」

 ガタガタ抜かすなら現場に来やがれ、というわけだ。情に駆られてそんなことを思ったわけなのだが、一方で、そういう「勢い」の中で冷徹に事態を見据えてくれる人間もいないと困る。では、どんな言葉なら僕は納得できるのだろう。


2.
 そもそも、インテリゲンツィアが「大衆」に力を与えうるなどと考えるのがおかしいのかもしれない。が、やはり知識人には知識人にしか出来ない仕事があるはずではある。どちらが偉くてどちらが卑しいというわけではない。じゃあ、書店員である僕は何を、どう出来るのか。

 7/1(日)、そぼ降る雨の中、バラバラと集まってくる人の中で、ぼんやりとそんなことを考えていた新宿中央公園。再稼働されるかどうか、瀬戸際だと思っていた。


3.
 出発はずいぶんと押したような気がする。予想の範囲なのか、何か事情があったのかは判らない。お巡りさんも結構な数が出動している。どこをどう歩いたのか、あまり覚えていない。御苑界隈でずいぶんと足止めをくらったのだが、人数のせいなのか、単に交通量の問題なのか。

 こんなことをして何になるのだろう、とは思わない。ただ、何かしないとまずい。そう思う気持ちは金曜日と変わらない。人数は8千とか1万とか、そんな発表だったと思う。それも大した数なのだけれども、この規模が決して大きくは見えない、というところが変化といえば変化かもしれない。


4.
 デモの列は急に流れ解散となるが、アルタ前へ、との声が聞こえる。お巡りさんはかなり居丈高に解散を命ずる。「回りの歩行者・車は諸君を待ってくれている。ただちに解散せよ」みたいな感じ。

 確かに、待ってくれている。確かに、いささか申し訳ないという気にはなる。けれど、待ってくれている人と、デモの隊列は、そうお巡りさんが言うほどに分断されているものだろうか。

 同じだとは言わない。けれど、まったくもって違うものではない。

 この境界線を、僕は見据えたい。それはおそらく、僕個人の気質もあろうけれども、それ以上に、他者の言葉を他者に届ける書店員という仕事からくる、欲望である。


5.
 官邸前の帰りや、渋谷でのデモの帰りにはまったくそんなことは思わないのだけれど、今回のデモに限っては、終ったあとに一杯やりたくなってしまった。まあ、ベルクが近いからというのもあるのだが。アルタ前にデカい車がついているのを尻目に、まずは兎に角ハーフを一杯ひっかける。

 アルタ前の広場は思いのほか人が少ない。いや、それでも結構な数がいるのだが、お巡りさんががっちり固めてくれてもいるので、飛び入り的には入り込みにくい。

 街宣車のアピールを今更聞いてもな、と思い、少し離れたガードに腰掛ける。すぐ横ではドラム隊の皆さんが、これまた一服しておられる。ちょっとしたまったりムードだ。デモに参加していたのか途中から飛び込んできたのか判らないおっちゃんが、スタッフらしき人と議論を戦わせている。

 あんまり僕は「場」を強調する言説にはさほど思い入れがないのだが、こうした「場」は確かに必要だよな、と政治家だか学者だかのスピーチを耳にしながら、ぼんやり。
 

6.
 空気は悪霊さんの登場で一変する。彼のマイク一本で、集まっている人の体が動き出す。どんなコールだったか、まったく記憶にない。けれど、言霊というものがあるとすれば、これは間違いなくそうしたものだろう。

 それに呼応するかのように、一服モードだったドラム隊の皆さんが動き出す。街宣車からは植え込みを挟んでいるからいわば死角になるはずなんだが、音は視界など気にせず突き刺さる。ある時は悪霊さんと呼応し、ある時は独自に、何度でも何度でも刻まれるリズム。いったんやんだかと思うとまた別の人が叩きだす。コールが起こる。踊り出す。叫ぶ。幾度となく、途切れることなく。

 僕も思わず身体を動かしていた。実に心地よく。


7.
 狂気だ。傍から見ればなんのお祭り騒ぎだと思われるだろう。真面目にやれ。そう思われるかもしれない。けれど、狂ったようにドラムをたたき、羽根飾りをつけて踊り、叫ぶ、その言葉は「NO NUKE」であり、「再稼働反対」であり「原発いらない」なのだ。

 狂気をまとってしか現れ得ない正気が、ここにはある。あるいは、正気であるためには狂わざるを得ないのだということ。

 ここに希望だけを見出すわけにはいかない。

 こんな絶望が他にあるだろうか。

 ふだんの生活や仕事の中では、覆い隠さなければならない正気。

 ほんのわずか数時間の間しか、あらわにしえないような正気。

 僕たちの日々はそんなにまで抑圧され、苦しいものなのか。

 ここを見据えなければ、かすかな希望すらつかみ損ねてしまいはしないか。

 上原專祿を読みながら思い浮かんだ言葉、「絶望に裏打ちされた希望」の意味を、僕は再び問い直さなくてはならない。


8.
 21:00を過ぎて、あれは松本さんだったろうか、大飯が再稼働されたとアナウンスがある。こんなことはふざけている、といったようなことが言われていたように思う。同感。

 「やってもダメだった」と思う人もいるかもしれない。さらに何とかしなきゃ、と思う人もいるかもしれない。 

 さて、自分はどうだろう。
 
 考えることだけは、やめるな。誰かが言っていることでも、全部自分の頭で考え直せ。

 今言えるのは、それだけだ。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-07-09 22:33 | Comments(0)

金曜日から日曜日へ(その一)

 いろんなことを考えるのだが、まとまらない。まとまらなくていいやと開き直る備忘録。時系列も無視されるだろう。構うもんか。


1.
 6/29(金)夜は、官邸前に行けないかと思っていた。が、仕事の都合がなんとなくついたので参加が出来た。この感覚は僕にとってたいせつだ。小売店という性格上、やはり店は開けなきゃいけないし、スタッフもいなきゃいけない。誰かがいてくれるから早く仕事から抜けられたり休めたりする。僕はたまたま官邸前に行ける条件が出来た。つまり、その分同僚の誰かは同時間に仕事をしているわけだ。

 官邸前にいることといないことが等価だとは言わない。違いはある。けれど、その違いはそう決定的なものでもないのではないかという感覚が、ある。もちろん、みんなが心情的には行きたいのだ、などと使い古された言い回しをするつもりは微塵もない。


2.
 6/22(金)は18:00前から参加したが、6/29(金)は仕事を終えてからだったので18:10くらいに、霞が関で降りた。国会議事堂前は明らかに大混雑だろう、と踏んだのだ。霞が関から少しずつ坂を上っていく。もうすでにあの一角は一周するくらいの人になっており、僕が歩いてきた方向に参加者を誘導しているところだった。22日の4万5千人――これがどの程度正確な数字かは判らないが、そう外れた数字ではないという感覚はある――を、おそらくこの時点で既に超えていただろう。

 やってくる人の波は途切れない。切実な表情をしている人もいる。本気で怒っている人もいる。笑っている人がいる。表情の種類はいっぱいある。ひとつだけ言えるのは、みんな血が通っていて、生きた表情だということだ。


3.
 一通りあちこち回って、官邸前により近いところに足を運ぶことが出来た時、すでに片側の車線はすべて埋まっていた。お巡りさんが判断するのだろうか。交通整理に徹してくれるのは、ありがたい。残業でご迷惑をおかけしているのは心苦しいが、でも、やっぱり言わなきゃいけないこと、言いたいことがあるので、ありがたいという気持ちをちゃんとあらわそうと、出来る限りお巡りさんにはあいさつをしたりしてみた。
 
 「敵」じゃない、と「信じる」しかないから。法律家や経験を積んだ活動家、あるいは実際に明らかに「不当」な扱いを受けた方からすれば甘いのかもしれない。確かに僕はイラっとさせられることは何度もあったが、逮捕されたことはないから。だけど、まず一歩は「信じる」ことじゃないだろうか。


4.
 徐々にもう一方の車線も埋まっていった。相変わらず意思表示を示すものは持たないし、声も基本的にはあげない。ただ、覚えずにじり寄る。コールなんてあってなきようなものだ。みんなが無数の小集団となって、その周りでいろんな声が上がる。

 シュプレヒコール。誰かがひとりマイクで声をあげ、そのあとに多くの人の声が続くという、そういうパターンばかりを見てきた。1万人くらいの規模だと、この「1対多数」の関係は変わらない。が、4万5千人規模だと、「1対多数」ではなくなるのが判った。「多数対多数」になる。つまり、多数の声が多数の声と応答する関係になるのだ。
 
 20万人ともいわれる規模になると、「多数対多数」ですらなく、かえって無数の個人・小集団の集合体としてうごめく何ものかになる。それらに身を任せれば、一体感を得ることも出来るだろう。その中で、かえって冷静に何かを考えることも出来るだろう。


5.
 集まって来ている人を見ながら、そして自分自身も含めて思ったことの一つは、「一銭にもならないのに、よくこれだけ集まったなあ」ということだった(多くの人が集まることに対する感激の涙はすでに封印している。涙する資格は僕にはない)。

 「一銭にもならない」のだ。むしろ交通費は持ち出しなのだから、完全に赤字である。けれど、来ざるを得なかったのだ。理由は様々あるだろう。みんなをひとくくりにするには無理がある。

 集まってきた人みんなが、「対案」を持っているだろうか。「知識」を持っているだろうか。ぶっちゃけていってしまうと、僕はいまだにベクレルだのシーベルトだのといった単語・単位の意味を正確には把握していない。電力供給における原子力発電のあり様だとか、エネルギーシフトだとか、そんなこともさっぱり判らない。判らないが、明らかに、今再稼働させることはおかしいのだ。信用できないのだ。

 うまくは言えないけれど、納得がいかない、おかしい、ヤバい……そんな思いの人が多いのではないかと感じたのだが、どうだろう。
 

6.
 国会議員と思しき人を何人か見かけた。どういう思惑かは知らない。一兵卒として参加しているのなら、やめてくれ、と一瞬思った。国会議員には国会議員にしか出来ないことがあるだろう、と。

 しかし、よくよく考えてみると、せいぜい数時間のことだ。その現場に身を置くことは決して悪いことじゃない。官邸前から自分の現場に戻って、本分を尽くせばよいのだ。

 それは、必ずしも国会議員にのみあてはまるものではない。僕には僕の仕事と立場がある。国会議員に対して「本分を尽くせ」というなら、僕もまた、そうしなければならないだろう。お互いに到らぬことはあっても、出来ないことがあっても。それでも、そうした次元で自分自身にも言葉を折り返さなければならない。

 そして、やり方は多様にあるように思うのだ。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-07-02 11:54 | Comments(0)