大澤信亮「柄谷行人論」(「新潮」2008年11月号)

 またずいぶんと間が空いてしまった。仕事がたてこんだせいもあるが、大澤さんの「柄谷行人論」(」(「新潮」2008年11月号)について、どう記そうかと逡巡していたせいでもある。

 雑誌掲載論文をこう繰り返し読んだことは、たぶん初めてである。恥をさらすが、柄谷行人さんはもちろん、大澤さんが随所で触れられるデリダもカントもろくに読んではいない。
 
 「なんだかよく分からないところがいっぱいあるが、大事なことを言っていて、たぶんそれは実感できるものだろう」というのが最初に通読したときの感想。二度目、三度目と読み返すにつれ、それは確信に変わった。

 柄谷さんを読んでいる人がどう受け止めるか、僕には分からない。が、柄谷さんを論じている大澤さんの眼差しは、当然程度の低い個人攻撃とは一切無縁であり、いかに今を私たちが生き抜くか、その一点に全身全霊を込めているように思われた。

 「いたずらに難解な言い回しを使うのは論外だが、『わかりやすいこと』と『明晰であること』は必ずしも一致しない。むしろ往々にして後者は前者を退ける。しかし、それは、『わかりにくい』現実とそれに翻弄され続ける『他者』に向き合うとき、誰もが強いられる思考の条件なのだ」(P.287)

 他者、あるいはわからなさをテーマとしたブックフェアもあったようだが、最近こういったキーワードに注目が集まっているのだろうか。本屋として非常に気にかかり、また注目したいところである。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-30 22:54 | 批評系 | Comments(0)

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