中西新太郎「1995年から始まる」(『1995年』)

 『1995年』の序論、中西新太郎さんの「1995年から始まる」について。

 中西さんの論考はいろんな要素をぎっちりと圧縮したような印象を受けるのだが、この序論も解凍するととてつもなく大きく――通時的にも共時的にも――なりそうなものである。

 もちろん年長であることも大いに影響はしているのかもしれないが、「1995年」に至る流れを簡潔に整理した上で、では、何が問題なのか? を指し示す。この序論がその後に続くどの対談にも基調となっており、個別具体的な話題ともシンクロして絶妙な読後感を生み出す。

 
「95年を捉える各論者の視角は、それぞれの違いが当然あるとはいえ、文化的個体化作用を、ともすれば、単純に解放的契機とみなしてきた前時代のエートスとはいずれも無縁のように思える。『ロスト・ジェネレーション』の旗手と言ってよい語り手たちのそうした姿勢には、新自由主義政治と消費社会の抑圧作用とが結びついたポスト95年の歴史状況が正確に映されている。『ロスト・ジェネレーション』が効果的就労対策を怠った政策による一過性の犠牲者ではないように、ポスト95年の歴史状況もそれ以前の歴史軌道からの一時的逸脱ではない。『自分さがし』の時代から『生きづらさ』の時代への転換こそが本質的であり、転換への着目ぬきに両者を無自覚につないだまま『生きづらさ』をあげつらうと誤読に陥る。ロスト・ジェネレーションが尖端に位置してぶつかっている困難と問題群とは、歴史の隘路に迷い込んだ結果遭遇するそれではなく、新たな歴史ステージの『正面』に立ち塞がる問題である」(P.29)


 「ロスト・ジェネレーション」といってもいろいろいるわけで、そうひとくくりにすることは出来ないのは当然なのだが――しかし、それは例えば杉田俊介さんの「自立と倫理」(『無能力批評』)、大澤信亮さんの「柄谷行人論」(「新潮」2008年11月号)といった試み、すなわち、「他者」と向き合うことについての極めて根源的な思考を通じて、ひょっとすると乗り越えられるかもしれない(もちろん、道は恐ろしく険しいに違いない)、と思わせるものでもある。この点は別の機会に少し触れてみたい――、問題設定を明確に示している点で捨てがたい記述である。雨宮処凛さんと萱野稔人さんの『「生きづらさ」について』の第四章「『超不安定』時代を生き抜く」にも通じるものであろう。

 中西さんらしく様々な作品への言及があるのだけれども、それらを評しつつ、「ただ現実を写すことも夢見ることも許さない身動きのとれなさ」(P.35)を描き出した上で、こう締めくくる。

 「過去と同じように夢は見ないが、そのようにして夢見る新たな試みをやめないこと、そうした仕方で『95年から始まる』現実に向き合うこと、つまり、『95年から始める』こと――それが、構造改革時代を生きる普通人ordinary personに課せられた歴史的責任ではないだろうか」(P.36)


 「夢」という言葉を、正面から受け止めつつ、続く対談についても思うところを触れていければ、と思う。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-16 00:41 | 業界 | Comments(0)

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