木村俊介「漫画評論ではわからないもの」(「小説トリッパー」2008年秋号)

 普段雑誌は読まないのだけれども、職業柄表紙を眺める程度のことはやる。あ、雨宮処凛さんが評論を書いているな、と思って購入したのが、 「小説トリッパー」2008年秋号

 「ベルク」でハーフ&ハーフを片手にページをめくる。ふと目に入る、「年表『ドラゴンボール』の終わった年」の文字。これはまさに1995年ではないか! と、この巧みに作られた年表と、同じ著者の手による「漫画評論ではわからないもの――『ワンピース』はどう消費されているのか」を読む。

 「ミもフタもないことを言えば、漫画の評論はつまらない」という一文から始まるこの評論。吉本さんの「転向論」について考えていたせいもあるだろうが、すごくストンと腑に落ちた。

 『ワンピース』も読んでいないし、実は『ドラゴンボール』も読んでいない。だが、「(来週は)どうなるんだ、という緊張感を持つ普通の読者」の姿を、「2ちゃんねる」や著者インタビューからきっちりと描いた上で、そうした読者にとって「読みたい評論」がもっと出てきて欲しい、と説く木村さんの主張は、極めて筋が通っている、と思う。

 この評論の終盤に、こんな一節がある。

 「ちなみに、往々にして『わかる』を前提にした評論はつまらなくなりがちだ。時代や社会についての個人の理解は不十分にならざるをえないのに『不変の正解』を押しつけることになりがちからだ」(P.44)


 「転向論」で吉本さんが指摘した「日本的モデルニスムス」とそっくりじゃないだろうか。いや、ちゃあんとよくつっこんで考えると違うのかもしれないが……。

 こういう評論は、面白い。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-12 00:46 | 批評系 | Comments(0)

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