吉本隆明「転向論」

 吉本隆明さんの『マチウ書試論 転向論』。しばらく前に読み終えていたのだが、読後感をどう言葉にできるか、と考えていた。

 この中でやっぱり面白かったのは、「マチウ書試論」と「転向論」。ひとまず「転向論」の印象を記しておきたい。

 これが約50年前に提出された当時の情況を僕はよく知らないが、極めてまっとうなことを指摘している、というように感じた。要するに、現実なり大衆なりというものに、ほんとうに向き合って闘い切れたのか? ということを言っているのだろう、と。

 「日本のインテリゲンチャがたどる思考の変換の経路は、典型的に二つある」(P.300)と吉本さんは言う。

 「第一は、知識を身につけ、論理的な思考法をいくらかでも手に入れてくるにつれて、日本の社会が、理にあわないつまらぬものに視えてくる。そのため、思想の対象として、日本の社会の実体は、まないたにのぼらなくなってくるのである。こういう理にあわないようにみえる日本の社会の劣悪な条件を、思考の上で離脱して、それが、インターナショナリズムと接合する所以であると錯誤するのである」(P.300)

 「理にあわぬ、つまらない現実としかみえない日本の社会の実体のひとつひとつにくりかえしたたきつけて検証されなかった思想が、ひとたび日本的現実のそれなりに自足した優性におぼれたときこそ無惨であった」(P.301-302)


 では、もうひとつの典型はどうだろうか。

 「……第二の典型的な思考過程は、広い意味での近代主義(モデルニスムス)である。日本的モデルニスムスの特徴は、思考自体が、けっして、社会の現実構造と対応させられずに、論理自体のオートマチスムスによって自己完結することである」(P.303)

 「日本的モデルニスムスにとっては、自己の論理を保つに都合のよい生活条件さえあれば、はじめから、転向する必要はない。なぜならば、自分は、原則に固執すればよいのであって、天動説のように転向するのは、現実社会の方だからである」(P.304)
 
 
 さらに吉本さんは続ける。

 「何れをよしとするか、という問いはそれ自体、無意味なのだ。そこに共通しているのは、日本の社会構造の総体によって対応づけられない思想の悲劇である」(P.307)


 あえて具体的な人名を省いて引用してみたのだけれども、どちらも、目を凝らすと今でも見られるようなことではないか、と思う。

 じゃあ、第三の典型はないのか? 吉本さんによれば、それは中野重治に見いだされる。

 
「……中野は転向によって、はじめて具体的なヴィジョンを目の前にすえることができたその錯綜した封建的土壌と対峙することを、ふたたびこころに決めたのである」(P.313)


 いわば、敗北と向き合う、といったイメージだろうか。

 ある種の「運動」の盛り上がりみたいなことがいろんな文脈で語られる現在において、さまざまな言説をどう見極めるか、の手がかりになり得る評論だと思う。
 
 
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by todoroki-tetsu | 2008-10-11 01:14 | 業界 | Comments(0)

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