道場親信『抵抗の同時代史』読了

 道場親信さんの新刊、『抵抗の同時代史』が入ってきた。あちゃー、なんで事前の情報を見落としていたんだろう。初回入荷がこんな数じゃやばい! あわてて追加した。恥ずかしいったらありゃしない。

 「週刊文春」以外定期的に雑誌を読む習慣がないため、というわけではないが、道場さんはずっと気になっていて、気づいた雑誌は買い求めてはいたけれど、当然見落としているもののほうが多く、こうしてまとまるのはありがたい。

 まず、表紙の写真が素晴らしい。田村順玄さん撮影の「国の仕打ちに怒りの1万人集会in錦帯橋」(2007/12/1)とある。砂川の時代でも安保の時代でも三里塚の時代でもない。まだ1年も経っていない、日本での光景であるということに大きな衝撃を受ける。

 「ポピュリズムの中の『市民』」を、特に興味深く読んだ。この論文の冒頭で道場さんは、「社会運動しに関わる認識の問題点」として、二つを挙げておられる。
 
第一に、近年の社会運動研究においては、奇妙な「段階論」的歴史記述がじわじわ拡がり始めている。ここでいう「段階論」的歴史記述とは、「○○から△△へ」といった語り方で、同時並列的に存在する現実を歴史的発展段階に位置づけ、そうすることで特定の人間の活動を「時代遅れ」のものとして価値剥奪したり、反対に特権化するものをいう(P.204)

  こうした「段階論」がしばしば「想像力の決定的な切り縮めへとつながってしまう」と指摘した上で、
 (問題点の)第二は、運動史や社会史の流れをとらえる歴史意識が陥没してしまっていることである。 先述の「段階論」的記述により、「古い運動」「新しい運動」というカテゴリーが作り出され、具体的な運動を価値づけ、選別するということが起こる。「古い運動」なるものはネガテイブに価値づけられ、具体的経験もそこでなされた議論も一緒くたに捨てられてしまう。かくして、抵抗の経験と記憶はあっさりと「新しい運動」の自己意識のイケニエとなってしまう(P.205)


 まったく時代背景もスタンスも異なるものの、『戦後革命論争史』における上田耕一郎氏を髣髴とさせる問題意識の鋭さと幅広い目配り。

 上田さんは実践家であるからとりあえずおいておくとして、同時代で道場さんのような指摘を受け止めることは重要だと思う。社会諸科学における歴史研究の意義がこうしたところにあるのであって、うまく他の議論とつなげていけないか、と「仕掛け心」(?)がくすぐられる。

 書き下ろしの終章「希望の同時代史のために」の中にこんな一節がある。

 弱く卑怯な人間たちが、どうやって恐怖や管理によることなく連帯性を育てていくことができるか、そのことを「歴史」とりわけ人々の経験の中から汲み出していくこと。人々の「つながり」の力に対するリテラシーを高めていくことが大切であると思う(p.285)


 「弱く卑怯な人間たち」と言い切るところに思わずグッときた。圧巻である。
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by todoroki-tetsu | 2008-07-11 13:27 | 業界 | Comments(0)

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