本田由紀「他人のつらさを自分のつらさに」(『軋む社会』)に感動

 中ほどまで『軋む社会』を読み進めている。ああ、いいなあ。こういう研究者がいるということで、日本もまだまだ何とかなるかもしれない、という気にさせてくれる。

 とはいえ、実際に働いている身として、また部下や後輩をもつ身として、反省すべき点も多い。「〈やりがい〉の搾取――拡大する新たな『働きすぎ』」は、わが身にグサグサ突き刺さる。特に労働に関する部分については別の機会に譲るとして、グッとくる一文を急ぎ紹介しておきたい。「他人のつらさを自分のつらさに」というコラムである

 本田さんは、2007年に広告会社に入社した若者の発言を取り上げる。

 「まず、私の目を引いたのは、いわゆるワーキング・プアであったり、働けなかったりする若者たちに対して、彼が『見てみぬふり』『知らぬが仏』という気持ちをもっていると述べたことである。」(p.79)

 そうした彼が「正直な人間であることだけは確か」であり、「彼だけでなく、たくさん存在するのも確かだ」とした上で、こう記す。

 「しかし、それならばいっそう、他者の置かれている苦しい状況への想像力や共感力が欠ける若者を、大量に育てあげてしまっていることについて、私たち年長者は厳しい自戒を要する」(同)

 ふたつのことを思う。

 ひとつ、「想像力」「共感力」ということ。調査畑の方がこうした言葉を用いるのは、よりいっそう重いもの、と読み手は覚悟せねばならない。

 調査という営みは、他者を前提として成り立っているものであり、当然のことながら「想像力」「共感力」がないとやっていられるものでは、本来的には、ない。しかし、調査をすればするほど、本当に自分は他者を想像できているのか、共感しているのか、が分からなくなってくる。それでもなお、知りたい、分かりたい、と思うところに調査という営みの意味がある、と思う。

 本田さんはさらりと述べていらっしゃるが、その言葉は、ご自身の調査経験、あるいは葛藤に、裏打ちされたものであるだろう。その意味の重さに、思わず襟を正した。

 ふたつ、「私たち年長者」ということ。本田さんは自分自身の問題として、この若者の発言を捉えようとしておられる。教育社会学、というお立場からはある意味当然なのかもしれないが、これだけ様々な若者論が飛び交う中、年長者である自分自身の立場を自覚して問題に取り組もうとするのは並大抵のことではない。

 本田さんはたしかお子様がいらっしゃったと思う。もしかすると、年長者というか、「親」としての思いもお持ちなのかもしれない。勝間和代さんも「情熱大陸」で「自分の世代は何とか逃げ切れるかもしれないけれど、子どもたちにはよい未来を残したい」といったようなことをおっしゃっていた。本田さんと勝間さんを同列に考えてよいのか分からないが。

 そして、このコラムの締めくくりの一段落が、また素晴らしい。引用はしない。ぜひ、ご自身で読んで頂きたい。


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by todoroki-tetsu | 2008-06-02 11:44 | 業界 | Comments(0)

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