上原専祿「国際政治と教育」

 先日に続き、上原専祿を読み返している。先日と同じ著作集14巻『国民形成の教育』(評論社)から、講演「国際政治と教育」(1961.3.28)を。

 「ことに、日本の今日の社会、日本の政治の中では、何か険しいものは必ず孤立していく傾向、正しいものは必ず抑圧されていくだという考え方の一面が強く、そのもうひとつ先の、可能性の展望、あるいは、何か将来の頼みがいのあるものとしてすでに芽生えているもの、そういったものに目をおおう傾向があるのではないか。現実がきびしく苦しくないというのではない。十分にきびしく、十分に苦しい、そして、それらに追いこまれていくような感じをもつ。しかし、追いこまれているのは私たちではなくて、現在権力の座についている人たちではないのか。つまり、現象と本質は表裏ではないのか、ということなのです。少なくとも、この一面も同時につかむのでなくては、現実認識とはいえないのではないか。そのような認識の仕方が今日大事であるし、子どもが大人になったときでも、やはり大事なのだということなのです。その意味で、夢を十分伸ばし、夢を十分持たせるような教育がほしい」(p.224)

 「追いこまれているのは私たちではなくて、現在権力の座についている人たちではないのか」という一節は、深い。なぜ私たちを追いこもうとしているのか? と考えると、それは私たちが力を持っているからだ、それを恐れているから追いこもうとしているのだ、という結論に至る。

 そうだ、私たちは力をもっているのだ。

 この話の後、国際情勢へと話題を移した後、

「私の国際認識というものは、あまり政治学的・社会学的なものではなく、たいへん文学的だ」(p.231)
 
 とした上で、こう続ける。 

「文学性がないと庶民的大衆の問題意識にならない」(同)

 そうか、文学を基礎にしている論客が多いのはそのせいであったか! などと一人納得する。杉田俊介さん、雨宮処凛さん、大澤信亮さん、浅尾大輔さん……などなど、雑誌「ロスジェネ」に集った皆さんは文学がベースだ。もちろん、文学者だけではないけれど、いわゆる「政治学的・社会学的」なアプローチをする人と伍して、文学を手がかりにしている論客がまとまった数で活躍しているのは間違いない。

 僕はさほど文学を読むほうではない、というよりもほとんど読まない。なので、よく分からない。だが、文学の力というものが、何か、ありそうな気がする。その力は多分、僕の想像以上に、大きい。

 何だかわくわくしてきた。
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by todoroki-tetsu | 2008-05-19 01:10 | 業界 | Comments(0)

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