『反貧困』読了

 小さい時分、とかく滑り台が好きだった。もの心つくかつかないかのころには「あといっかい!」とせがみながら何度も滑っていた(といまだに親に言われるのは何とも腹立たしいのだが)らしい。小学生になるとさすがに熱は落ち着いたものの、ちょっと変わった滑り台のある公園――通称タコ公園。ダメモトで調べてみたらヒットした。懐かしい――では相当飽きずに遊んでいた。

 ただ、不思議と一人で遊んでいた記憶はない。随分小さいときは親が側にいてくれたわけだし、またその公園のボス格のガキ大将的な上級生がいたりしたこともあって、なんだかみんなに見守られながら遊んでいた、という記憶がある。もちろん、友達同士で遊んでいたこともあった。

 もやいの湯浅誠さんの新刊『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』を読みながら、そんなことを思い出した。「一度転んだらどん底まですべり落ちていってしまう『すべり台社会』」とまえがきで記しておられる。たしかに、すべり台は何が楽しいって、ちゃんとまた上に上がることができるから楽しいわけだし、友だちも含め周りの人が見守ったり一緒にいてくれたりしている安心感があるからこそ、子どもにとってはそこそこの高さのある=それなりの危険性はある遊具で遊べるわけでもある。

  読みどころは多いが、第三章「貧困は自己責任なのか」で展開される五重の排除は必読。『若者の労働と生活世界』でも展開されていたが――石井政之さんのコンパクトかつ適確な批評も参照されたい――、より深化しているのは「自分自身からの排除」。

 湯浅さんはこう記している。

 「期待や願望、それに向けた努力を挫かれ、どこにも誰にも受け入れられない経験を繰返していれば、自分の腑甲斐なさと社会への憤怒が自らのうちに沈殿し、やがては暴発する。精神状態の破綻を避けようとすれば、その感情をコントロールしなければならず、そのためには周囲(社会)と折り合いをつけなければならない。しかし社会は自分を受け入れようとしないのだから、その折り合いのつけ方は一方的なものとなる。その結果が自殺であり、また何もかもをあきらめた生を生きることだ。生きることと希望・願望は本来両立すべきなのに、両者が対立し、希望・願望を破棄することでようやく生きることが可能となるような状態。これを私は『自分自身からの排除』と名づけた」(p.61-62)、と。

 こうした「排除」から抜け出すために、金銭的なことだけでなく人間関係なども含め「溜め」をつくることが必要だ、と説く。

 いわゆる自己責任論をかなり意識して筆を進めているのが強く感じられる。1975年生まれ=「新時代の『日本的経営』」を二十歳の時に目の当たりした世代≒自己責任論の影響を強く受けたひとつの世代としては、自分自身への反省(これは時として自分にとってもすごく痛い)を迫られる。

 少し話は変わるが、こうした分析と、例えば雨宮処凛さんがこのように語ることを結びつけて考えることは出来ないだろうか?

 「とにかく、私は傍観者として生きることの方が苦しい。自分が何を思おうと、何をしようとこの世界がまったく変わらないとしたら、これほどの絶望はない。絶望するのが嫌で当事者性を過剰に求めまくっているということに、自分で気がついたんですよ」(『全身当事者主義』、p.227)

 「自分自身からの排除」からうまく抜け出せたとして、即雨宮さんのようになれるわけではないだろうし、またそうすべきというわけでもない。でも、ここに共通する何かがあるような気がしている。

 自己責任論やいわゆるネオリベをめぐっての言説は色々あるけれども、湯浅さんのような現場の人の言葉、雨宮さんのような自分で身を張ってきた人の言葉は格別の重みを持つ。
 
 こういう本を多くの人に届けられるのは、本屋冥利に尽きるというものである。
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by todoroki-tetsu | 2008-05-01 00:40 | 業界 | Comments(0)

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