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杉田俊介『長渕剛論』・大澤信亮「温泉想」

 読後直後は一定の興奮状態であって、そのときなりの感想は記すことが出来る。しかし、勢いで記していいものだろうか、と迷っていて、そうこうしているうちに随分と時間が経った。杉田俊介さんの『長渕剛論』(毎日新聞出版)である。

  
 杉田さんと同世代(学年は一つ違いかもしれない)の僕も、長渕さんに一度ハマり、しばらくして離れ、そのまま戻ってくることなく今まで来ている。同世代でしか通用しないであろう昔話を、それとしてあれこれ書き連ねることはできるけれども、さて、そうしたところで何になるか、そんな風にも思ったのだった。

 
 『親子ジグザグ』の再放送を小6のときに友達が見ていたのが最初のきっかけで、「ろくなもんじゃねえ」にはまり、なぜか当時住んでいた香川ではほどなくして「家族ゲームⅡ」の再放送があり、「家族ゲーム」は見たかどうかいまいち覚えていない。中学の時が「とんぼ」でドはまり、上京して新宿西口をぶらついた時にあのラストシーンを思い出すくらいには影響は残っていた。高校になるくらいからはなんとなく離れていったが、「JEEP」のツアーは観た。アルバムで追ったのはこれくらいが最後。「STAY DREAM」からこのあたりがドンピシャだが、そんなおしゃべりをしたところで内省にはならない。しいて時代的?なことを記すとすれば、長渕さんが「昭和」を出したころ、光GENJIが出したのが『Hey! Say!』で、妙にイキがるだけの田舎男子中学生が、男を気取って女子の向こうをはろうとしていたことっくらいだろうか。いずれにせよ、つまらん話。
 

 そう、話そうと思えば、あれこを話すことはできる。しかし、この20年と少しを振り返ってみようとしたときに、とたんに失語することに気付く。べつに長渕さんファンであり続けていなかったから、というのが理由ではない。そんな間口の狭い批評ではこの本は決してない。長渕さんとがっちり向き合う杉田さんの言葉を読むというのはどういうことなのか、眼から胸を通じて肚にくる、そんなずしりとした感覚。「たんに『いい歌だね』『流行っているみたいだね』と聞き流し、消費することをゆるさないものが、長渕剛という人の中にあったし、今もある」(p.17)と杉田さんは記す。そう記す人の言葉をどうして「聞き流し」「消費」することが出来るだろう。


 だから、感想めいたものは書けない。ただ、言葉を手掛かりに、その奥底にある何ものかに手を伸ばそうとすることはできる。


 本を読み返せば、ああここにもこんなことが書かれている、と再発見する言葉はいくつもこの本の中にはある。が、初読からつかまれ、たとえ本を読み返さなくとも、仕事している最中や、通勤中や、何か新聞などを読んでいるときなどにふと、よみがえる箇所がある。第六章「明日を始めるために」。2015年8月22日、「長渕剛10万人オールナイト・ライヴin富士山麓2015」の批評である。ライヴについて、あれこれ「小さな一部分を叩いて全体を台なしにしたがる人々」について触れた後の箇所(前後関係は本文をあたっていただきたい)。少し長いが、引用する。p.228の記述。


 この世のすべてに対しほどよい距離を取って、冷静に醒めている程度のことが何なのだろう? 他人の情熱と本気を安全圏から愚弄しつづけねば日々の飯すらうまく食えない、にやけたあんたたちの顔は何なのだろう? 自らの汚れた手や腐臭にすら無感覚になり、ますます増長し、すべてを台なしにしていくあんたらの群れは、いったいどこへ行くんだろう?

 「フリーターに関する20のテーゼ」や「無能力批評」(「フリーターズフリーvol.1」)を想起させる力強さ。ぐっと握りしめたこぶしのような強さ。それを振り上げまいとするギリギリの理性。


 でも、これだけなら、まだ「消費」して済ませることが出来る。自分が戦っていると信じることできる自分の弱さに目をつぶるのは、とてもたやすいことだから。「敵」を勝手に仕立てあげることの毒に気付かずに済まそうとすることは心地のよいことだから。
 

 杉田さんはこう続ける。


 いや、本当はそんなことも、どうでもよかった。必要なのは、何かに本気で没入しつつ、その危うさもポテンシャルも丸ごと引き受けて、個体としての肉体を通して、さらにその「先」の明日を切り拓くことだと思った。どんなに小さくささやかであれ、他人の命がけの本気から恩恵としての果実を受け取り、それに感謝し、糧として、自分を人間として熟成させ、変え続けていくことだ、と。

 初読から半年、幾度となくこの二つの段落が頭をよぎる。引き受けて、切り拓く。ほかならぬ自らの肉体を通じて。はたして、そんなことが出来るだろうか。わからない。


 そんな思いもどこかにあった中で、大澤信亮さんの「温泉想」(「すばる」2016年7月号)を読んだのはまだ暑くなり始めるころだった。「この人は僕のために書いている」。そんな訳はないし、「罪人」という言葉に機械的に反応をしている訳でもない。どの言葉がどの一文がどうとか、そういことでもない。全編を通じてそう感じる。


 この思いは幾度読み返しても、頭を離れない。




by todoroki-tetsu | 2016-11-03 11:05 | 批評系

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