伊丹万作「戦争責任者の問題」其の九

進める前に、さかのぼる。どうしても読み返してみたくなった箇所。

いったい誰がだまして、誰がだまされたのか。「日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う」と述べたあと、ややあってこんな文章がある。


少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐに蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。

そんな状態に国民が追い込まれてしまったからだ、と万作は言う。しかし、と続けるのだが、そのあたりは「其の四」「其の五」にゆずる。追い込まれた末のだましあい。そんな状況であっても、だましもせず、だまされもせぬように生き延びていくことは出来ないか。万作が記した「自己反省」という言葉を読むとき、政治か文学かという根源的な問いに直面していることを忘れてはなるまい。


「滅びるね」ーー広田先生の言葉が残響する。




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by todoroki-tetsu | 2015-02-03 00:39 | 批評系 | Comments(0)

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