伊丹万作「戦争責任者の問題」其の八

著名な言葉があらわれる。


「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

だますこと(人)とだまされること(人)の区別はそうはっきりしたもんじゃない、そもそもだまされたといったからと主張したからと言って責任から逃れることはできないじゃないか。だまされることそのものが悪である。万作はこう指摘してきた。ここから万作自身のこと、具体的にはこの一文を記すきっかけとなった映画に関する記述に進むのであるが、その直前にあたるのがこのあたりとなる。


一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

「戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが」(!)。当時この言葉がどう読まれたのか、僕は知らない。どのような考えからであれ、責任「追及」に執着していた人からはずいぶんと反発を招いたのではあるまいか。繰り返すが、この文章は1946年8月発売雑誌に公表されたものである。

脱線するが、思いつく人の生年を記してみる。


・上原專祿:1899年

・渡辺一夫:1901年

・伊丹万作:1900年

・小林秀雄:1902年

・中野重治:1902年

・高島善哉:1904年

・宮本顕治:1908年

・丸山眞男:1914年

・加藤周一:1919年

・吉本隆明:1924年


僕の中では高島善哉より上と下で受ける印象が随分と変わってくる。たまたま何かしらのきっかけで知るようになり、何かにつけ参考とする/したいと思う人を少し並べてみただけなのだけれども、「国民」のとらえ方についてしっくりくるのは高島より上の世代である。


こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であって、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。

この次に政治問題についての興味深い記述がつづくが、その前に、万作のこの言葉の意味をよく考えてみたい。だました側の責任を追求する仕事を否定しているわけではない、しかし、その前にもっと考えなければと訴えているというのがひとつ。

しかし、こういうことを言えば「声を上げなきゃ」「何かやらなきゃ」「沈黙は認めたことといっしょ」など、もろもろの言葉が返ってくるだろう。それはそれで正しい。では、どっちが正しいかという問題か? 違う。


万作はもっと別の次元を見ている。責任を追求した、その結果何かが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。本当に変わるということは、私たち自身が変わることではないのか。自己反省がなければ何も変わりはしないのではないのか。


万作との対話がもし可能であれば、おそらく以下の言葉とそう遠くない地平が見えてくると思われる。戦後加藤周一さんたちの前で軍歌のレコードを流した渡辺一夫の姿とも、水俣病をめぐって紡がれてきた多くの言葉とも、僕にとっては重なってくる。今朝2015年1月29日付の「朝日」の「論壇時評」から、武藤類子さんの言葉。「世界」2月号よりとあるが、孫引きで申し訳ない。


原発事故は、東電だけに責任があるわけではなく私たちにもある。でも、一億総懺悔のようにみんなが自分のせいだと思って終わりではだめなのです。自分を問いつつ、そしてやっぱり一義的に責任がある人にきちんと責任をとらせなければ、また同じことが繰り返される


万作のいう自己反省と、武藤さんがここで言っている「一億総懺悔」が、まったく異なるものであることは言うまでもない。自己の反省がそのまま国民としての反省につながるような、そういうスケールで考え抜かなくてはならない。





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by todoroki-tetsu | 2015-01-29 20:00 | 批評系 | Comments(0)

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