走り書き的覚書

こういうことはじっくりやらなきゃいけない。だから機会が他者からもたらされる場合を除いてしゃべったり書いたりはしてこなかった。とはいえ情勢が情勢でもある。順不同に書いていく。なお、かつて書店員イデオロギー論としてメモしてきたことと、特に「三人のモデル」の部分には基本認識に大きな変化はないと自覚している(実際はわからない)。


「売れるなら何でもありか」。何でもありでもあり、何でもありではないともいえる。問いの立て方が間違ってやしないか、と疑ってみよう。売れる、とは何に比べてどうなのか。何でもあり、のその中身は何か。主語を己一人として語り続けることができるか、と内省してみること。


「ほんとうは売りたくない」。そうだろうか。どんな中身であれ、商品として値段がついている。金額の多寡によってのみ判断される。本だけは違う、などという輩の言葉を僕は信じない。言葉とカネの問題を突き詰めて考えている同時代の批評家・文学者のことを僕はできる限り忘れないでおこうと思う。どんなものであれ、カネに変わればそれとしての喜びはある。押し付けて売るわけでないのだし。売れれば置くし、広げる。売れなければ見切りをつける。それだけのことだ。


「ほんとうは売りたくない」と書店員が言う場合と書店員以外の立場の人が言う場合は、分けて考えよう。「ほんとうは売りたくない」といったところで、売れたらそれはそれとしてうれしいし、達成感はある。そういう次元が確かに存在する。そもそも何であれ売らなければ食っていけないのだ。もっと初歩的な、好ききらいだけの次元もある。ある、今でも続くある作家さんの歴史ものがある。彼が嫌いだった書店員は、人気の全盛期であっても一面以上には広げなかった。そんな程度の次元も書店員にはある。書店員以外の立場から見えるほど、書店員は考えていないのではないか、と疑ってみよう。そもそも、考える暇がどこまであるか。


たくさん本が出ていることと、実売数が伸びているかどうかは別の話であると考えること。むしろ、たくさん出始めたらそのジャンルの市場は崩壊に近づいている、と考えるのが書店員としては実感に沿うだろう。崩壊までが恐ろしく短い場合、徐々にの場合、細々とではあるが着実に定着する場合。何がいずれに属するかは、わからない。


ここに至るには、源流があるということ。比較的目立たなかったもの、一部にしか支持されなかったものが一挙に表舞台に出た、ということ。無から有は生じない。ならば転化はどこにあったのか。あったものをなかったことにはできない。顕在化には、それとして意味はある。


頭を切り替えてみよう。逆の立場から見れば、どうか。 今まで虐げられていたものが逆転した。こんなに喜ばしいことはあるまい。同じようなことが、何度も何度も繰り返されてきただけではないのか。問題を相対化しようとして、ずらそうとして言うのではない。何度となく人間が繰り返すとして、僕はむしろこれを絶対的な問題として直視していきたいと思う。

事実も真実も大事なことだ。 しかし、いかなる事実も、いかな真実も、人を変える力を持ちえない、そんなことにぶち当たったことはないか。自分自身が事実や真実によって変った、という経験はあるだろう。僕にだってある。しかし、それは果たして事実や真実の力だけであったろうか。その時に実は、自分自身を見つめていたのではないのか。自分を揺るがす事実を、真実を、知らぬうちに選び取っていたのではないのか。

慰安の言葉を消費するのは、悪いことではない。その慰安が、他者の何かを奪うようなものでなければ望ましい。慰安を求める自分を、言葉を消費する自分を、見つめること。今もんだいとされるものを出している会社の、ほかのラインナップをよく見てみよう。機を見るに敏、というところが少なからず見当たりはしないか。企業として、悪いことでは決してない。消費者と読者の裂け目、これを見極める手がかりはこうしたところにあるのではないか。



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by todoroki-tetsu | 2014-06-13 00:27 | 批評系 | Comments(0)

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