伊丹万作「戦争責任者の問題」其の六

 「だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人」を批判したあと、さらにこう記される。


 私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持っている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまたひとつの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

 ここでもまた、伊丹万作は言葉の人だと痛感する。「不明を謝す」という言葉を知っているか知らないかという次元ではなく、その言葉に込められた何ものかをつかんでいる。言葉を正しく用いる、いや、用いられるということ。言葉は他者から、いや死者から、やってくる。死者なくして私たちの生はない。ならば、言葉に正しく向き合うことそのものに、私たちの死と生のすべてがあるとは言えないか。

 伊丹万作が「知識の不足」ではなく「意志の薄弱」に、力点を置いていることは明白である。これは後にさらにはっきり記されるのだが、「知識の不足」には言い訳の余地がありそうだが、「意志の薄弱」には逃げ道がない。要するに、手前の了見しだいじゃねぇかってことだ。

 謙虚さ、あるいは内省。静かな怒りとでもいうべきものが、感ぜられるようだ。
 



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by todoroki-tetsu | 2014-02-05 21:58 | 批評系 | Comments(0)

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