『はだしのゲン』について(其の四)

 一段落した気でいたんだが、どうもくすぶっている。生きていくというのはそういうことなのだから別にいいんだし、ケリをつけられることなどそうあるわけではない。


 もう一度、渡辺一夫を引く。

 
 初めから結論が決まっていたのである。現実には不寛容が厳然として存在する。しかし、我々はそれを激化せしめぬように努力しなければならない。争うべからざることのために争ったということを後になって悟っても、その間に倒れた犠牲は生きかえってはこない。歴史の与える教訓は数々あろうが、我々人間が常に危険な獣であるが故に、それを反省し、我々の作ったものの奴隷や機械にならぬように務めることにより、はじめて、人間の進展も幸福も、より少い犠牲によって勝ち取られるだろうということも考えられてよいはずである。


 
 この一文にたどりついたのは、僕にとって最悪の事態と思われる、『はだしのゲン』の流通・販売に何らかの制限がかけられること、それを防ぐために地道に何が出来るだろうかと考えてのことであった。


 しかし、渡辺のこの一文は、その最悪の事態を避けるためにとるべき「態度」をも示している。「歴史の与える教訓は数々あろうが、我々人間が常に危険な獣であるが故に、それを反省し、我々の作ったものの奴隷や機械にならぬように務めることにより、はじめて、人間の進展も幸福も、より少い犠牲によって勝ち取られるだろうということも考えられてよいはずである」が、それだ。これはどちらか一方の立場に対してだけあてはまるような言葉ではないのだ。


 閲覧制限けしからん、ナンセンスだ、ありえない、見識を疑う……どういう言葉でもいいのだが、「攻撃」してよい事態なのだろうか。逆に閲覧制限を求める人にとっても、『はだしのゲン』という作品じたいを、またその扱い方そのものに対して、攻撃的なものいいは何も生み出さぬだろう。


 圧力、という言葉が可愛いと思えるくらい品のない罵倒の言葉を、僕たちはすぐさま検索することが出来る。読んだら言えない筈だ、とは思わない。読んだ後どのような感想を抱くかは自由だからだ。ただ、脊椎反射のような言葉の応酬はうんざりする。


 閲覧制限を求める人も反対する人も同様に、自戒と自省が必要だというほかはない。それは当然僕自身を含むものである。ついつい激情的な言葉を発することもありがちだからこそ、それもひっくるめて、落ち着いて、読んで、話して、じっくり考えたい。

 
 みんながみんなで幸せになるには、それしかない。
 
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by todoroki-tetsu | 2013-08-22 16:05 | 批評系 | Comments(0)

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