『はだしのゲン』について(其の三)

 さて、書き継いできてもっとも生々しい現実であるところの、書店員としての自分を見つめながら『はだしのゲン』について考えてみる。


 商売、という観点からすればこれ以上の「売りどき」はない。話題になれば売れる。まっとうな議論が起きれば、関連書も売れる。

 
 まっとうでなければならない。反対者もなるほどと思わせる言い方や論法、お互いを切り結んでともに生きて行こうとする精神に貫かれた議論でなければならない。そんな体験を僕たちは近年、『「僕のお父さんは東電の社員です」』(現代書館)でしたはずではなかったか。活かせるものをすべて活かせ!

 
――余談だが、ある問題について話をしていた時、反論者には反論の場を与えない、という意見を年配の編集者から実際に聞いたことがある。その反論は「非科学的」であるから、ということなのかもしれない。だから取り上げるに値しないのだ、ということなのかもしれない。社会学的には別の観点があり得るだろうが、書店員として言っておくと、もう既にある意見に賛成の人は賛成の意見の本しか買わぬし、反対の人は反対の意見の本しか買わない。問題はそこではないのだ。目先の顧客にとらわれるな。そうした動向を遠巻きに見て、「なんだかよく判らないことで争っている人たち」と見ている莫大な潜在的読者こそが重要なのだ。僕が『「僕のお父さんは東電の社員です」』を所謂原発本の中での至高の一冊と考えるのは、そうした広がりを潜在的に今なお、秘めているからなのだ――

 
 と威勢よく言ってはみたものの、それはあくまで商売上何ら問題のないものであるから言えることだ。訴訟中であったり、出版差し止めまで行かずとも係争中のものであったり、そうしたグレーゾーンのものとなると書店員としての僕はとたんに弱気になる。


 最下級ではないにせよ、相対的に低位の下士官である僕にとって大事なことのひとつは、部下を守ることである。部下を守る武器が与えられていなければ、会社から引き出させなくてはならない。「なんでこんな本を売るのか」あるいは「なんでこの本を売らないのか」。そうしたことに会社としての「答え」を準備させなくてはならない。最も困るのはグレーゾーンであり、後だしで持ち出される「原則論」である。何も柘植行人を気取るわけではないが、組織人であれば多かれ少なかれ劇場版「機動警察パトレイバーⅡ」の冒頭には共感する部分があろう。


 その時問題になるのは武器の有無であって、その中身は問題ではなくなる。売ってよいかどうかの判断を会社が下すこと、現場任せにさせないことが最優先される。


 そんなことが重なると、「いかにも」な本を嬉々として上梓する出版社に対してはよい心持がしなくなってくる。確かに時として取次の過剰反応ともいうべきものはある。そこは問題視してよい。だが……。正直、「こっちを巻き込むなよ」「表現の自由を叫びたかったら勝手にやってくれ」という気持ちが強くなってくる。理屈をこねる出版社よりも、僕にとってはお客様と直接接する部下が大事だ。

  
 原則的には、僕が間違っているだろう。開き直るが正当化はしない。これが僕にとっての生々しい現実である。

 
 だから、今のところはああ、話題になってるな、よし今のうちに『ゲン』を売ろう、とのうのうとしていられるけれども、これがさあ販売規制云々などという話になってくるとうかうかしてはいられなくなってくる。万が一これで『ゲン』がグレーゾーンになったとしたらどうなるか。僕はやはり、「何はともあれ武器を」と求めざるを得なくなる。


 そうであってはならない、と自分の中から声が響く。そんなことで手間をかけられない、という実に小経営者的な発想と。これを機にまっとうにいろんな本を売りたい、という書店員的な発想と。市民として、読者としての発想もまた併在していよう。

 
 ささやかに、まっとうに生きたい。たぶん、今はまず『ゲン』を売ることだ。まずは知ってもらうことだ。仮にシビアな決断をせざるを得ない状況になるとしても、そこに至るまでに努力はあきらめてはならない。そう自分に言い聞かせながら、渡辺一夫の言葉を噛みしめる。「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」から。

 
 初めから結論が決まっていたのである。現実には不寛容が厳然として存在する。しかし、我々はそれを激化せしめぬように努力しなければならない。争うべからざることのために争ったということを後になって悟っても、その間に倒れた犠牲は生きかえってはこない。歴史の与える教訓は数々あろうが、我々人間が常に危険な獣であるが故に、それを反省し、我々の作ったものの奴隷や機械にならぬように務めることにより、はじめて、人間の進展も幸福も、より少い犠牲によって勝ち取られるだろうということも考えられてよいはずである。

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by todoroki-tetsu | 2013-08-22 10:57 | 批評系 | Comments(0)

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