『はだしのゲン』について(其の二)

 読者としての個人的な体験からすれば、閲覧制限に意味があるとは思われない。


 閲覧制限を求める人、それに応じた人、そのそれぞれの思いは聞いてみたい。これをもって直ちに言論統制だの、実態がよく判らない言葉の一つであるところの「右傾化」などに結びつくとも思われない。その背景にそれぞれあるであろう思いに立ち返らなければ、何もうまくいかないような気がするのだ。


 制限を求める人には、おそらく何通りかがあるだろう。本当に心の底からの善意で、『はだしのゲン』は子どもの教育上よろしくない、と考えている人。『はだしのゲン』あるいはそれに象徴されるなにものかを嫌悪する人。子どもに限らず、こんなものはけしからんと思っているかもしれない。そのけしからん対象は、おどろおどろしい描写だけであろうか。

 
 ほかにも理由があるのかもしれない。僕がここでまず言えるのはふたつのことだ。

 
 第一。教育の「自治」について僕は保留しておいた。ことはすぐれて教育の問題である。教育の問題だから僕には関係ない、とは言わぬ。それは教育基本法の理念に反する。「旧」とは記したくないんだが、誤解を避けるために「旧」教育基本法の条文を引こう。


 第十条(教育行政) ① 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。


 「直接に責任を負」われる国民の一人として、僕はある。そんな解釈があっているかどうかなんざどうでもいい。教育の問題は僕のような独り者であったって抜き差しならぬ問題として観念しなければ嘘なのだと言いたい。
 
 
 かといって専門的なことがいえるわけじゃない。ただ、無関係ではないということだけを強調したい。謙虚な責任を負いたい。ここでも立ち返るべきは上原專祿になるのだが、今は略す。ひとつ言えるのは、閲覧制限を主張する人も、それに応じる人も、不真面目だとは思わない。ただ、ほんとうに子どものためと思うのであれば、子どもを巻き込んで、あるいは真剣に検討し合う自分たちの姿を、少なくとも子どもに見せたほうがよかった。そのほうがいくらも教育効果はあるだろう。子どもを信じようではないか。まだ、間に合う。

 
 これは第二の点とかかわる。子どもを信じようじゃないか。たとえどんな惨酷な描写(為にするものはともかく)であっても、子どもは大丈夫だと僕は思う。ただ一つの条件だけが必要だ。それは、クラスや友人や近所や身近な人やらと、一緒に読書体験を受け止める場を担保すること。僕はゲンについて友だちと話してきた。親とも話してきた。そうした体験といっしょに子どもの読書を考えなければならない。


 ゲンではないが、これも小学生時代のこと。これまた図書館にひめゆり部隊を描いたマンガがあった。僕にとってそうした過去の歴史があったことははじめて知ることであり、なんとひどいことだろうと思った。家に帰ってから夕食の支度をしている母親に「ひめゆりって知ってる?」と聞いてみた。もちろん母親は知っている、と答えた。「なんてバカげたことだろう」といったことを僕が口にしたら、母親が眼の色を変えて怒りだした。僕がひめゆり部隊をバカにしたと勘違いしたらしい。すぐに誤解は解けたのだが、その時の母親の変わり様は鮮烈に記憶している。読書とは、こうしたことと併せて考えられなきゃだめだ。


 だから思うのだ。たまたま自分が恵まれていたのだろうし、自分がもし仮にこれから子育てをすることになったとしてどこまで出来るだろうかと不安にもなるのだが、何を読むべきか/べきでないかよりも、読んだ体験をどう共有し深めることが出来るか、のほうがよっぽど重要なのではないか、と。だから、例えばタバコの描写だったりなんだりとったところに目くじらを立てる意見にはどうにも違和感がある。学校がどうこうだけじゃなく、「国民全体」なのだから。


 以上がいわば「市民」としての見解といえようか。覚えず迂回をしてしまったが、なるほど書店員である前に市民であるのだから当然か。書いてみると気づくことがたしかにある。

  
 稿を改めよう。
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by todoroki-tetsu | 2013-08-22 10:10 | 批評系 | Comments(0)

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