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大澤信亮『新世紀神曲』単行本刊行にあたって

 昨晩ちらと触れたことについて、ちゃんと記しておこう。

 
 大澤信亮さんの第二弾目となる単行本、『新世紀神曲』が5月末に出る。嬉しいことである。一読者として嬉しいというだけでなく、こうした「これを読むとここで紹介されているこの本が読みたくなってくる」と思われるような作品が出れば、それだけ他の本も売れるというものだ。それが何よりド定番というか、王道に向かうところがいい。枝葉の「知識」などはどうでもいいのだ。


 宮沢賢治しかり、柳田國男しかり。食うこと、暴力、「その人」……どれをとっても個別的かつ普遍的な主題である。最新の知見と古典の言葉が入り乱れる。旧い物のなかに新しいものを、新しいもののなかに旧いものを、見る。見えるもののなかに見えないものを、見えないもののなかに見えるものを。

 
 要するに、古くて新しい問いに常に全身全霊で立ち向かう批評家と、僕たちは同時代にめぐりあっているということだ。耳触りのよい言葉などありはしない。だが、そこには僕たちの生きる足元を照らす光がある。


 この光のイメージは、どうしても僕のなかから拭い去ることは出来ない。無意識的に「朝日のような夕日をつれて」を参考としているだろうが、それはどうでもいい。以前に記した文章を再録させて頂こう。「出日本記」に触れてのことである。


 今まで、大澤さんの文章を拝見していて、ひとつのイメージが出来上がりつつあった。というよりも、読みながらどうしても僕の中でイメージされていく映像。それは、教会と思しき建物の中で、ひとりステンドグラスから差し込む光に照らされている男の姿。


 彼はしっかりと立つ。何かをつかもうと手を上方に伸ばす。目はしっかりと光の先にある何かを見ている。光の先にあるのは具体的な誰かであるのか何か、判らない。その人自身にも判らないのかもしれない。けれど確かに、光のほうを見上げて目を逸らそうとはしない、決して。


 『神的批評』に収録された文章、ならびに「復活の批評」は、すべからくこうした映像を僕に喚起させるものであった。では、その姿を見ている自分はどこに立っているのか。それが僕の読み手としての問いであった。けれど、「出日本記」から喚起される映像は、こうしたものとは少し違う。


 同じく光は、ある。が、差し込む光のイメージが違うのだ。ステンドグラス越しに上方から差し込むのではなくて、それこそより直接的に太陽から降り注ぐような光の輪。その輪に差しかからんとする場所に、彼は立っている。いや、もうすでに光の輪の中に足を踏み入れているのかもしれない。


 気がつけば僕の足元すぐ近くにも、光の輪はぼんやりとは届いていて。さあ、お前はどうするのだ、といよいよもって迫ってくる。


 「柄谷行人論」や「批評と殺生」などに特徴的に見られる、エンディング直前におけるたたみかけるような否定語の連続が「出日本記」にはない。それのみが光のイメージの違いの理由なのかは判らない。「新世紀神曲」のエンディングも目立った否定語の連続は見られぬけれども、「光の輪」が僕自身の足元にも届いてきているというイメージを抱くことには変わりなく、それは関係あるのかどうか。ついでに言っておくと、「新世紀神曲」のラストは大江健三郎さんの『洪水はわが魂に及び』を僕に連想させるものであった。


 さらに言おう。「小林秀雄序論」(「新潮」2013年4月号)において、大澤さんは小林の「私信」「再び文芸時評に就いて」――批評と創造・創作についての言葉――から引用をしたあとこう続ける。

 ここには何か根本的な態度の変更がある。社会通念としての評論を書いていた者が、社会通念としての創作を試みる、そんなことではない。数々の論争を行った人間が達した境地である。この言葉を文字通りに受けるには、受け取る側にも準備がいるのだ。


 こう記された言葉を、僕たちが読むにも準備がいるだろう。さらに、「数々の論争を行った人間が達した境地」とあるところに注意しておきたい。

 
 大澤さんは為にするような批判はしていない。論争がどの程度あったのかなかったのか知らないけれども、無駄な喧嘩を吹っ掛けたような印象は持たない。何か大物とされるものに対して虚勢を張り、闘った気になっているような言葉など、どこにもありはしない。それを見抜けぬ読者は、見抜きたくない自分に気づくことから始めなければならない。そこに気付いて虚心に読めば、ただ問いを生きていこうとする生身の批評家の姿が浮かび上がるだろう。

 
 ここまで記してようやく、本題に入ることができる。


 新刊案内といってもいろいろあるのだが、大手取次が週次で出すものがわりあいに書店の世界では一般的だ。そこで『新世紀神曲』がどのように紹介をされているか。ネットでも確認できるからそこを参照しよう。e-honではこうある。

 言語ゲームはもう終わりだ。闘って問え。問うて闘え。『神的批評』で劇的なデビューを遂げた新鋭、待望の第二作。「超批評」三篇。

 
 正直に言って、初見時に大変違和感を覚えた。これは駆け出しの新人を売り込むような文句ではないのか。ことさらに「闘い」などと言う必要がもはやあるか? いささかあざとくはないか。言葉数少ないところで目立てせなきゃいかんのは確かに判るが……。前述の「境地」を思わせるのは難しかろうが、これでは真逆ではないか。


 新潮社のサイトでの告知はさすがなものだ。これを目にして安心すると同時に、キャッチフレーズ的な文句をひねり出さざるを得なかった、おそらくは担当の編集さんか営業さんだろう、その苦労も改めて偲ぶのだ。

 名探偵・犬神修羅。彼と共に密室に閉じ込められたのは、実在する現代小説の主人公たち。謎めく空間から抜け出すため、彼らの「愛」を巡る言葉の饗宴が始まる!――これは批評なのか。これが批評なのだ。前代未聞の表題作他二篇を収録、『神的批評』に続く評論集。

 
 とはいえ、文句を言うだけなら誰でもできる。肝心の今更こんなことをしてもしょうがないが、60字以内のしばりのなかで、例えばこんなフレーズならどうだろう? 

 『神的批評』から二年半。待望の第二作は現代小説の主人公が織りなす「神曲」! 批評を超える「超批評」。表題作含む三篇。

 
 「超批評」というのがよく判らないが、何となく判る。それを活かして、「神」のつながりを意識させたいと考えるとこんな風になる。


 が、こんなことはどうでもいい。既に単行本を出し、この二年半のあいだに不定期ながらも王道の文芸誌各紙に評論を掲載してきた批評家を売り込もうとする時、このような惹句でしか書店員が気付けない、あるいは気付けないと思われている情況こそが、書店員である僕の直面するもんだいである。

 
 読者としては、単行本になって改めてじっくりと読みたいと思う。書店員としては、いかに多くの読者に買ってもらうか、そのための準備をいかにすべきかと思い悩む。楽しさと苦労の入り混じる、何とも落ち着かない日々が続きそうである。

by todoroki-tetsu | 2013-05-04 10:04 | 批評系

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