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「神と人とのあいだ 第二部――夏・南方のローマンス」

 僕が木下順二さんをちゃんと読もうとするきっかけがこれであった。厳密に言えば、この作品にある台詞、

 取り返しのつかないこと――でも、その取り返しのつかないことをあたしは取り返そうと思うんだな。


 これに仮託して「失われた10年」への静かな怒りを込めた二宮厚美さんの一文にふれたことによる。岩波の「木下順二集」は僕の書棚の一角を占め続けている。

 
 戯曲は繰り返し読めるが、舞台でお目にかかれることはめったにない。「神と人とのあいだ」の第一部「審判」は、2006年にようやく観る機会を得た。そして今回の第二部「夏・南方のローマンス」は2013年4月。場所はどちらも紀伊國屋サザンシアター。どちらも生で見られたのは僥倖といえよう。


 僕が観た回(4/15)ではワキを固める役者さんにトチりが重なったのが残念ではあった。が、メインを張っておられる方々はもちろんのことしっかりしておられ、特に女A(戯曲では「トボ助」と明記)・女B(同じく「希世子」)のお二人、桜井明美さんと中地美佐子さんの対峙は素晴らしく感じられた。

 
 その上で記すのだが、役者さんはもちろんのこと、観ている僕も、不遜な言い方をすればその場に居合わせた総体としての観客ぜんたいが、木下さんの繰り出した言葉の重みに持ちこたえられていないように感ぜられたのだ。それは例えば女Aたるトボ助のこういう台詞。

 うるさいよ! あたいはあたいを説き伏せているんだ。言葉であたいにそう思いこませようとしてるんだ。言葉はあたいの商売なんだよ。自分で自分をそう思いこまされもしないで何が人前でものをいえるもんか。 

 僕だって一度や二度でない程度には戯曲を読んでいる。読んでいて迫力を感じたのはもちろんだが、台詞は役者さんの生身を通じて発せられ、椅子に坐る生身の僕の耳に目に飛び込んでくるとその力は想像をはるかに超える。失語。

 
 もうひとつあげて見よう。男Aと鹿野原の戦犯裁判の控えた場面でのやり取り。最初は男Aから。

――罪? 罪って、罪があるからおれたちつかまっちまった。そうじゃねぇのか?

――お前こそばかだな。こっちでそう決めてかかる奴があるか。つかまえたほうがつかまったほうより偉いときめこんじまうのが日本人のいけないとこだ。卑屈な根性だ。

――なるほど。テキさんだってうんと悪いことやってるに違いねえ。

――だから同格さ。けどテキさんは、今や自分を神さまだと思いこんじまってる。

――なるほど。

――けど、こっちが勝ってたらおれたちも自分を神様だと思いこんじまうにきまってる。

――はあ――

――そこンとこなんだろうな、“罪”っていう問題は。



 なぜ今これが再演されたか、その理由は僕には判らない。しかし、今なお続く戦争責任の問題にとどまらず、さらに根源的・あるいは普遍的な何ものかに近づこうとする無意識の力が働いたように思えてならない。いや、そうした力に用いられたというのが正しいのか? 

 
 その何ものかに、役者さんも僕も僕以外の観客も、同時に触れたのだ。ためらいも戸惑いもあってそれは当然であるだろう。


 戦争責任を描いた戯曲としてこの連作が優れているのは言うまでもない。それは先に引用した台詞でも判るように、何かを一方的に断ずるようなものでは決してない。おそらく虚心に接すれば、かなりの程度思想が異なる人でも共感し得るものが少なからず含まれている。中野重治「五勺の酒」に通ずるものがあると僕は感ずる。


 言葉の重みに耐えきれない、という体験はけっして悪いことではない。逃げ出しさえしなければ。あるいは、早急な解決を求めて、沈黙を恐れるというだけの理由で言葉を発する事さえしなければ。さいきんの僕の体験に引き付ければ、それはやはり失語というほかはない。その体験を通じて何ものかに触れる。

 
 失語とは、自分に折り返された問いへの「もがき」なのかもしれない。
  

by todoroki-tetsu | 2013-05-02 18:22 | 批評系

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