書くことと商売

 今日は若松英輔さんの講演。「聖夜の詩学―ディケンズ・内村鑑三・太宰治」と名付けられたそれは、実にすばらしい空間と時間であった。


 ここでその体験を語るのは野暮に過ぎる。ここでは講演の本題とは、外れてはいないが少しそれた部分のところを少しだけ記したい。


 今回は質疑応答の時間を多めに取っておられた。為に普段よりも双方向のやり取りが多かったわけだが、そのやり取りの中で、若松さんがこんなことを語られた。

 
 ――一連の機会を通じてやりたかったのは、文章をみなさんと読むということ。難しいことだろうが、さらにはみなさんと書くという作業をやってみたい。書く、ということが発表することと強く結び付けられたのはある種の不幸ではないか。誰に発表するでもなく、読んで書いてみる。そうすると書くことの難しさもよく判る。

 
 精確にメモを取れたわけではなく、うまく文意を再現出来ているか自信がない。が、言葉をめぐる体験の大切さを強調されていることがひしひしと伝わってきた、そのことだけは確かだ。


 さて、僕は他人が記した言葉のパッケージでメシを食っている。ゼニになる言葉のパッケージと、そうでない言葉のパッケージ。そのような分け方が僕には染みついている。ゼニにならないならなるように工夫しようじゃないか、というのが基本スタンスでもあり、だからある時には散々にこきおろすし、ある時には版元さんにおしかけて口を出す。


 しかし、何か根本のところで何か思い違いをしてはいないだろうか。自分のやってきたことにはそれなりの自負はある、だが……。

 
 自省するにはふさわしい寒さである。
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by todoroki-tetsu | 2012-12-13 22:53 | 批評系 | Comments(0)

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