「『敗北』の文学」と「様々なる意匠」(その六)

 人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれてくる。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は、彼以外のものにはなれなかった。これは驚く可き事実である。この事実を換言すれば、人は種々な真実を発見することは出来るが、発見した真実をすべて所有することは出来ない、或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循る真実は唯一つあるのみだという事である。雲が雨を作り雨が雲を作る様に、環境は人を作り人は環境を作る、斯く言わば弁証法的に統一された事実に、世の所謂宿命の真の意味があるとすれば、血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。


 先に宮本の「宿命」に触れた。構図として、小林の批評の次元に宮本が立っていることを確認したいと思った。言葉でメシを食う覚悟をした小林を基準にし、何ものかになろうと決意はしたがいまだ学生であった宮本の言葉を差しはかろうとした。


 もちろん、ここは大げんかになるだろうな、というところを探すほうが容易である。二人が現実にどのように接点を持ち、あるいは持たなかったは知らん。80年前の言葉を引っ張り出して僕がやりたいのは対岸の火事の炎上ではない。二人の硬度から手前が何を引き出せるのか、ただそれだけがやりたい。その意味で、まず二人の立つ次元、極めて高い硬度を確認する必要があったのだ。

 
 しかし、僕が今小林の方に肩入れをややしていることは事実である。上記で引いた小林の言葉は、何度繰り返し読んでも飽きることがない。「人は種々な真実を発見することは出来るが、発見した真実をすべて所有することは出来ない、或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循る真実は唯一つあるのみだという事である」。何と強烈なことか。

 
 宮本なら階級闘争を、社会変革を、ここで持ち出すだろう。宮本にとっての真実は外部にある。社会と言ってしまおうか。社会と個の関係。社会があるからこそ個がある、というのじゃない。個は社会との関係を正しく認識せよ、ということだ。この認識と、それに基づく実践は「無関心」を許容するが、「嘲笑」を拒否しよう。

 
 いっぽう、小林にとっての真実は自己にある。しかし、これとて他者と社会と没交渉なわけじゃ決してない。バルザックとマルクスを並行して論じた一文を思い出そう。「生き生きとした現実」の息づかいをどれだけ大切に思っていたか。そのために小林は「意匠」の化けの皮をはがしたのだ。そんなものはとっぱらっちまって手前の心底感じ取るものをつかめ。小林の真実はたしかに自己にある。しかしその自己は閉ざされたものではなく、他者との不断の交流に触れあい続けるものだ。「人は便覧(マニュエル)によって動きはしない、事件によって動かされるのだ」。

 
 どちらを取ればどちらを捨てなければならん、そういうもんだいではない。かといってどちらも取ろうとすれば、矛盾に直面することがあるだろう。しかし、何度でも繰り返すように、二人は同じ交差点に立っている。その後の歩みがいくら違っていようと、宿命が交差する瞬間があった。ならば、宮本と小林の違いは、この二人にのみ帰せられるのでもなければその後の嫡流・亜流にのみ帰せられるものではない。だれしもが直面する不可避的な違いである。


 いずれの道も険しい。迷うこともある。その時に立ちかえる交差点がここなのだ。そこから一度選んだ道をもう一度たどり直すか、別の道を選ぶかはそれこそ「宿命」に帰するだろう。「これを読んでいるお前さんはどうすんだい」と問われる……二人の文章に共通する読後感を僕はそう記したのだった。

 
 では、記さなければならないのは手前のことだ。断続的に書き散らしてきたが、「運動」もしくは「問題」について、その対する態度を固めたいというのが僕の希いだ。例えば「社会」を、「制度」を認識し、そこに働きかけることが解決策であるように思えた。それは現実であり、間違ってはいない。しかし、すべてを社会や制度にしてしまうと、結論先にありきのもの言いとなる。いつの間にか出来あがった型紙。その型紙が通用しなかった時、僕の取った態度というのは思い出すだにおぞましいものであった。そのおぞましさを自覚するのに長い時間を要したことがさらに事態を悪化させた。傷つけてはいけない人を傷つけた。取り返せるものはもう何もない。そう思いながらもまた過ちを犯している。


 しかし、かといって個別具体的な問題からスタートしようとすると、あまりにあらゆる問題がありすぎて、どうしたらいいのか判らんというのが正直なところなのだ。もちろん、いくつかの自分にとってたいせつな問題は、ある。やれることしかやれないし、やらない。それでよいのか。それではよくないのか。


 一度作った型紙を、ぶち壊す。後に残ったものを見据えよう。ただ一つの問題であっても、そこにきっちりと対峙していけば、何かが見いだせるかもしれない。そこからやり直すこと。何度でも、何度でも。発する言葉、耳にする言葉への感覚を、研ぎ澄ませること。


 小林から学ぶべきは、己の「宿命」を見出すこと。宮本から学ぶべきは、決意と実践である。その逆ではない。

 
 
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by todoroki-tetsu | 2012-12-13 09:46 | 批評系 | Comments(0)

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