「『敗北』の文学」と「様々なる意匠」(その五)

   娑婆苦を娑婆苦だけにしたいものは
   コンミュニストの棍棒をふりまわせ。

   娑婆苦をすっかり失いたいものは
   ピストルで頭を撃ち抜いてしまえ。

                                       ――「信条」――

 この詩は明らかに次のことを意味する。史的な必然として到来する新社会が、今日の社会より幸福ではあるがそこにもまだ不幸は残っている。

 こういう世界観が到達する一定点こそ、芥川氏自身が身をもって示した悲劇であった。氏の「娑婆苦」は現代社会におけるあらゆる闘いの抛棄に氏をおもむかしめるものであった。


 きわどい。実にきわどい。小林なら一笑に付すかもしれぬ。ずっと不幸はなくならない、芥川はそこに絶望して自死したのだということか。しかし、宮本よ、不幸の残らぬ社会などあり得るか。


 宮本はこの時、不幸のない新社会を人間が作ることが出来ると、ほんとうに信じていたか。信じていたろう。しかし、その信は、もう一つの可能性をほんのわずかではあるが、隠し持っていたように思われる。「氏の文学に捺された階級的烙印を明確に認識しなければならぬ」と言う時、宮本は芥川を糾弾したのではない。「ブルジョア的芸術家の多くが無為で怠惰な一切のものへの無関心主義の泥沼に沈んでいる時、とまれ芥川氏は自己の苦悶をギリギリに噛みしめた」という言葉は、糾弾姿勢からけっして引き出せるものではなかろう。

  
 もう一つの可能性、それは芥川を、あるいは芥川的なものを、社会変革・階級闘争によって救い出そうとすることだ。全篇にあふれる芥川への敬慕を見よ。その時の新社会とは、不幸のないものではなく、不幸をみんなでなくそうとするものと観念されたはずだ。しかし、その観念は、そう確固たるものではない。新社会の障害になるものを克服せんとする時、味方にし得る者を敵に回してしまう危険性は常にはらむ。だが、すぐさま言葉をついで僕はこう言っておきたい。それはひとりコミュニズムのせいではなく、あるべき何ものかを共同で目指さんとする時に誰もが必ずぶち当たる障害なのだ。

 
 その意味で、宮本はその「宿命」を生き抜く覚悟を決め、実践した。これはやはり相当なもんだぜと思わざるを得ない。敬服に値しよう。では、お前はどうするのか。


 ……再び「様々なる意匠」に立ち返ろう。


 
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by todoroki-tetsu | 2012-12-12 20:49 | 批評系 | Comments(0)

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