「『敗北』の文学」と「様々なる意匠」(その四)


 吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。


 「様々なる意匠」の冒頭である。言葉は、その独自の働きを持っている。独立して存在している。しかし、私たちは言葉を使ってしか考えることが出来ない。これは小林の確信である。そして、批評家として言葉に生きようと腹をくくった。


 こういう意味での確信は宮本にはなかったろう。かといって宮本が言葉を軽んじていたとも思えない。芥川の言葉を丹念に読みつづけた宮本には、言葉を通じて掴んだ芥川の苦悩を確かに内在化させるところまで到達していた。だが、そこで宮本は「現実」へと足を踏み出す。言葉を成り立たせる「現実」に目を向ける。


 しかし、さらに厄介でありまた興味深いのは、小林が言葉の世界に逃げ込んだとか閉じこもったとか、そういうことではないということだ。先に「或る現実に無関心でいる事は許されるが、現実を嘲笑する事は誰にも許されていない」という言葉を引いた。さらに、後半のバルザックとの対比で述べた部分を引こう。


 この二人(等々力注――バルザックとマルクス)は各自が生きた時代の根本性格を写さんとして、己れの仕事の前提として、眼前に生き生きとした現実以外には何物も欲しなかったという点で、何ら異なる処はない。二人はただ異った各自の宿命を持っていただけである。


 宿命については別に触れよう。ここでは、マルクスが生き生きとした現実を欲していた、そのことを小林は十全に理解していたことを確認するだけでじゅうぶんだ。さらに続ける痛罵を読もう。


 世のマルクス主義文芸批評家等は、こんな事実、こんな論理を、最も単純なものとして笑うかも知れない。然し、諸君の脳中に於いてマルクス観念学なるものは、理論に貫かれた実践でもなく、実践に貫かれた理論でもなくなっているではないか。正に商品の一形態となって商品の魔術をふるっているではないか。商品は世を支配するとマルクス主義は語る、だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するという平凡な事実を忘れさせる力をもつものである。


 これが為にする批判でも言いがかりでもないことは明らかだ。言葉の魔術を確信する小林にとって、こうした「意匠」ほど陳腐に見えたものはなかったろう。

 
 もう一歩踏み込むなら、宮本がこの文章に入り込んで「芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない」と続けても差しつかえはない。宮本もこうした小林の言葉を、ある程度肯ずるものとして読むことが出来た筈だ。では、小林は? 

 
 小林が「『敗北』の文学」に入り込むことがあったとすれば、どうか。「人はこの世に動かされつつこの世を捨てる事は出来ない、この世を捨てようと希う事は出来ない。世捨て人とは世を捨てた人ではない、世が捨てた人である」。このように芥川その人を評するかどうか知らない。しかし、仮に宮本の世界に入り込んで小林が言い放つなら、こうした言葉であるように思われる。宮本はこうは言わなかったし、おそらく言えないに違いない。これは興味深い問題である。

 
 ……まったくもってうまくない。うまくない読みだが、しかし、どうにも二人が予想されるほどにはかけ離れたとは思えぬ、その点を念頭に置いて書き散らしてきた。それは同時に、二人の違いを浮き彫りにしていくことでもあった。


 それぞれの評論の中で、もっとも印象に残る個所を読み比べることを通じて、焦点をあわせて見ることにしよう。しかし、その焦点の先に何が見えるのか、僕自身まだ判らないのである。
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by todoroki-tetsu | 2012-12-11 21:35 | 批評系 | Comments(0)

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