「『敗北』の文学」と「様々なる意匠」(その二)

 凡そあらゆる観念学は人間の意識に決してその基礎を置くものではない。マルクスが言った様に、「意識とは意識された存在以外の何物でもあり得ない」のである。或る人の観念学は常にその人の全存在にかかっている。その人の宿命にかかっている。怠惰も人間のある種の権利であるから、或る小説家が観念学に無関心でいる事は何等差支えない。然し、観念学を支持するものは、常に理論ではなく人間の生活である限り、それは一つの現実である。或る現実に無関心でいる事は許されるが、現実を嘲笑する事は誰にも許されていない。



 さて、これは宮本顕治と小林秀雄の、いずれの文章か。「宿命」とか「或る現実に無関心でいる事は許されるが」といった言い回しから、ああこれは小林だと知られよう。しかし、これが「『敗北』の文学」の文章の一部だと言われても、すんなり読めてしまうのではあるまいか。それほど近しい距離に二人はいるように僕は感じる。その逆はあり得るか。なかなか考えるに足る問題だ。


 「『敗北』の文学」と「様々なる意匠」を繰り返し読む、そのことで得られる手触りは、どうやら近いぞこの二人は、というものである。もちろん、決定的な違いはある。しかしそれはまったくすれ違うことのない場所にいるという意味ではない。1929年のある時、交差点でこの二人は並んで佇んでいた。一方は東へ、一方は西へ、それぞれ足を踏み出していく、瞬間が感じられる。それはたまたま宮本顕治と小林秀雄という二人が背負った宿命であったろうが、その宿命はまた彼らだけのものでもないように思われる。時代と屹立した個がどのように歩むか、といったら言い過ぎか。


 行きつ戻りつしながらも、まずは二人の評論に共通するものに重点を置いていきたい。それによって違いはより引き立ち、決定的なものとして迫ってくるであろう。


 補足的に述べておくと、読後感はどちらも非常に似通っている。「これを読んでいるお前さんはどうすんだい」と問われるということだ。小田さんの言う、「で、あんたはどないしはりますねん」に近い。宮本は明快な言葉でグイグイと引っ張っていく。決断を迫る。「進歩か反動か」。小林はそうは言わない。俺は啖呵を切るだけさとでも言いたげだ。しかし、思いのほかさらりと締めくくられた結語を読むたびに、「お前はどういうつもりで言葉を読む気かね」と、暗に問いかけてくる。お前の本をカネを出して買ったのはこっちだい、という気持ちなどふっとんじまう。観客席でのほほんと坐っているお客さんにはさせてくれやしない。安心して楽しめるような言葉じゃないのだ二人とも。優れた批評とはこういうことだ。読んでいる手前とあわせて三つ巴のとっちらかり。

 
 そんな風に読まなくちゃ、「現実」に申し訳が立たない。あの日を思わせる地震を経たなら、なおさらだ。
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by todoroki-tetsu | 2012-12-07 20:53 | 批評系 | Comments(0)

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