2012年 12月 07日
「『敗北』の文学」と「様々なる意匠」
「運動」もしくは「問題」に対して、自らよって立つところを定めたい。この数年の僕自身の主調低音である。ああでもないこうでもないと右往左往して、自分の問いはおそらく批評から多くの手がかりを得られそうだ、という地点に今はある。
誰かの言っていることを、まったくその通りだと思う。あるいは、そんなんじゃねぇや、と思う。全肯定や全否定が出来れば気が楽なんだが、この人のこの部分は共感するけれど、この部分はちょっと……というのがほとんどであって、それで思い煩うのでもある。
しかし、他者と自己と関わりというのは、そもそもそんなもんじゃねぇのか。信者になろうとするのでなければ、そうした共感と違和とのあいだで往還を繰り返しながら、関係をつくっていくものだろう。語るべきなにものも自分にないのなら、沈黙すればよい。だまって耳を傾けよ。そう思えるようになってきたのは、つい最近のことだ。
前置きが長くなった。選挙に関わって言葉の問題をあれこれ考えているうちに、ふと小林秀雄の「様々なる意匠」が思い起こされた。「一つの意匠をあまり信用しすぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない」。意匠という言葉が、あくまで選挙向けの次元での公約やスローガン、あるいはその個人や政党が信ずる「正しさ」と、シンクロするように思われた。僕は研究者でもなんでもない。今を考える手がかりが欲しい。ただそれだけだ。小林の評論からヒントが得られるならしめたものだ。
大して長い評論ではない。けれども例によってといおうか、逐一ハラにくる。グサグサくる。こいつはどうにも本物だぞ。当たり前だがそう思う。しかし、僕は小林信者というわけではない。為にする批判をするつもりはないけれど、そもそもの出自として、僕は小林を読むような人間ではなかった。「宮本に懸賞論文で負けたから反共なんじゃないの」という、これまた今思い返すとびっくりするくらい危険な浅薄さの認識に立っていた者である。が、今更恥じ入ってもどうにもあるまい。
ならばと思い、今度は宮本顕治の「『敗北』の文学」も読み返す。やっぱりこれはこれで実に面白いのだ。入党する前に書いたというのがすごい、みたいな物言いを耳にしたことを思い出す。失礼を承知で言うなら、そんな次元じゃねぇぞと思う。僕は共産党の存在意義をいささかも軽んずるものではない。しかし、ここでもんだいにしたいのは、大上段に振りかぶりたくはないけれども、例えていうなら社会と個の関係であり、政治と文学という問題なのだ。
「『敗北』の文学」は一見結論先にありきの、それこそ「意匠」のように読みとれる部分もあるだろう。が、宮本のその後を試みにすべて捨象して、この批評文だけを丹念に読んでみる。そこに感じ取れるのはむしろ、「生き生きとした嗜好」と「溌剌たる尺度」(「様々なる意匠」)ではないのか。
1929年の「改造」懸賞文芸評論の一等と次点。こう記しただけでいかにも古めかしいという気がする。しかし、いずれの批評も80年近く経った今なお、活き活きと僕に語りかけてくるというのはどういうことか。この二つの評論ががっぷりと四つに組んだありさまは素晴らしい。言葉について「硬度」という表現を仮に用いたけれども、どちらも透き通った、自他共に貫く硬度を有した批評である。
読むために少し書いてみたいと思う。途中で自爆するかも知れん。それはそれでよかろう。
誰かの言っていることを、まったくその通りだと思う。あるいは、そんなんじゃねぇや、と思う。全肯定や全否定が出来れば気が楽なんだが、この人のこの部分は共感するけれど、この部分はちょっと……というのがほとんどであって、それで思い煩うのでもある。
しかし、他者と自己と関わりというのは、そもそもそんなもんじゃねぇのか。信者になろうとするのでなければ、そうした共感と違和とのあいだで往還を繰り返しながら、関係をつくっていくものだろう。語るべきなにものも自分にないのなら、沈黙すればよい。だまって耳を傾けよ。そう思えるようになってきたのは、つい最近のことだ。
前置きが長くなった。選挙に関わって言葉の問題をあれこれ考えているうちに、ふと小林秀雄の「様々なる意匠」が思い起こされた。「一つの意匠をあまり信用しすぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない」。意匠という言葉が、あくまで選挙向けの次元での公約やスローガン、あるいはその個人や政党が信ずる「正しさ」と、シンクロするように思われた。僕は研究者でもなんでもない。今を考える手がかりが欲しい。ただそれだけだ。小林の評論からヒントが得られるならしめたものだ。
大して長い評論ではない。けれども例によってといおうか、逐一ハラにくる。グサグサくる。こいつはどうにも本物だぞ。当たり前だがそう思う。しかし、僕は小林信者というわけではない。為にする批判をするつもりはないけれど、そもそもの出自として、僕は小林を読むような人間ではなかった。「宮本に懸賞論文で負けたから反共なんじゃないの」という、これまた今思い返すとびっくりするくらい危険な浅薄さの認識に立っていた者である。が、今更恥じ入ってもどうにもあるまい。
ならばと思い、今度は宮本顕治の「『敗北』の文学」も読み返す。やっぱりこれはこれで実に面白いのだ。入党する前に書いたというのがすごい、みたいな物言いを耳にしたことを思い出す。失礼を承知で言うなら、そんな次元じゃねぇぞと思う。僕は共産党の存在意義をいささかも軽んずるものではない。しかし、ここでもんだいにしたいのは、大上段に振りかぶりたくはないけれども、例えていうなら社会と個の関係であり、政治と文学という問題なのだ。
「『敗北』の文学」は一見結論先にありきの、それこそ「意匠」のように読みとれる部分もあるだろう。が、宮本のその後を試みにすべて捨象して、この批評文だけを丹念に読んでみる。そこに感じ取れるのはむしろ、「生き生きとした嗜好」と「溌剌たる尺度」(「様々なる意匠」)ではないのか。
1929年の「改造」懸賞文芸評論の一等と次点。こう記しただけでいかにも古めかしいという気がする。しかし、いずれの批評も80年近く経った今なお、活き活きと僕に語りかけてくるというのはどういうことか。この二つの評論ががっぷりと四つに組んだありさまは素晴らしい。言葉について「硬度」という表現を仮に用いたけれども、どちらも透き通った、自他共に貫く硬度を有した批評である。
読むために少し書いてみたいと思う。途中で自爆するかも知れん。それはそれでよかろう。
by todoroki-tetsu | 2012-12-07 09:30 | 批評系