言葉の硬度

 さすがに都知事選と総選挙のダブルとなると、言葉の行き交いようも心なしか増すように思える。もんだいは中味なのだろうけれども、限られた期間で情勢は日に日に、一刻一刻と変化する。どんな次元でもよい、選挙を主体的にたたかった経験があればこれはある程度理解されうるであろう。


 選挙を評論の対象として見るだけの見方はしっくりこない。選挙運動に入り込み過ぎるのも危険だということは判っちゃいる。しかし、例えば学生自治会の選挙でじゅうぶんだ、獲るか獲られるかみたいなことを一度でも経験していれば……いや、要は経験をどう血肉化するかしか違いはないか。


 さて、といったところで今の僕はとりたてて目立った選挙活動をするわけでもなければ、自分の支持する候補者や政党の支持を声高に訴えるということもしない。だからといって逆のことは出来ない。選挙を虚無の眼で見ることは出来ない。


 とするならば、せめてもの主体的なかかわりは、誰が何を言っているのかに耳を澄ますことだ。もちろん、レーニンに倣って、その人が何をした/しているかを思い起こすことも忘れずにいよう。「こうします」という言葉に反応するのと同じくらい、その人が何をした/しているかを知ることは大事なはずだけれど、ともすると言葉にのみ走りがちになる。「これからこうしますと言っている。それでいいじゃないか」。本当にそうか。新人が無所属で出るならそれもよかろう。しかし、そうでないならば、参照できる過去が必ずあるはずだ。それを踏まえるか踏まえないかも、結局は手前(てめえ)自身の判断になるわけだが。


 けれども今、考えてみたいのは言葉のほうだ。様々に威勢のいい言葉や批判の言葉が飛び交う、それらの言葉を、自分なりに読み解く基準を持っていなくては、と思う。その人の過去を踏まえる/踏まえないが手前自身の判断になるのと同じくらい、言葉を読む基準を持っていなくちゃいけない。


 しかし、不思議なことがある。こうして政治家の言葉を読む、その基準というのは一般的に言って公約に集約されるだろう。この人は何を掲げ、何をやるのか。確かにそうなのだ。そうなのだが、僕が今考えたいのはそうした政策とはちょっと違う次元のところなのだ。言葉がどれだけ重みを持って手前自身に響いてくるか、そのことだ。

 
 直接政治や選挙に関わることではないが、僕にはこのことで思い起こされる体験がある。中島岳志さんが秋葉原事件をお話になる時にほぼ必ずと言っていいくらい触れられることがある。彼が工場を飛び出した時の書き込みに、バンプ・オブ・チキンの「ギルド」の歌詞が見られるということと、それについての中島さんの見解だ。たぶん僕はこのくだりを少なくとも3回は講演の場で直接伺っていると思う。伺う度に、その意味を、またこのことを書き手としての中島さんがどれほど重く見ておられるか、そのご自身の立ち姿に対しての敬意を抱かずにはいられない。変な言い方かもしれないが、何度伺っても伺うたびに身の引き締まる思いがする。

 
 ところで、本題はこの先だ。僕はある時、まったく別の座談会で、中島さんが指摘しておられたのと同じことを、ある登壇者が話していたのに出くわした。まだ『秋葉原事件』は上梓前だったが、その登壇者も直接あるいは間接に、中島さんのお話を聞いたのだろう。登壇者は決して不誠実ではなく、さも自分が発見したのだというようにしゃべったのではなかった。中島さんのお名前こそ出さなかったが、伝聞として紹介したというほどであった。しかし、僕には強烈な違和感があった。話の上手下手もあるだろう、でも、それだけではない。そこには中島さんの語り口から感じ取ることのできる言葉の硬度が、圧倒的に欠落していた。気の抜けた、搾りかすのようなおしゃべり。ひょっとすると、活字にすればそれなりに読めたのかもしれない。しかしどうにも腑抜けた感じがして嫌でしょうがなかった。自分の得た感慨が損なわれる気がしてほとんど激昂しそうになった。


 その原因は何だろうと考えていた。話し言葉と書き言葉の違いも大きい、話術の要素も大きかろうということで半ば済ませてもいた。しかし、比較的最近、書き言葉――といっても話したことを書き起こしたそれ――でも、同様の違和を覚える体験をした。「チッソは私であった」という言葉を、現在に引き付けようと試みた文章をめぐって感じた違和だとだけここでは記しておく。僕が間違っているかもしれない。頭を下げるだけならいくら下げてもいい。水俣をめぐる運動や大変さを僕などがほんとうの意味では知る由もない。しかし、言葉に忠実であろうとすることは出来る。


 誰がどうやら書いた/話した、読んだ/聞いたという次元だけの話でもなさそうだぞ、という気がしてきている。今でも判ったとは言えない。しかし、どこまでその言葉が、その発せられる生身の肉体に内在化しているか、なんどもなんども自問自答を繰り返す中で硬度を高めていったか、そこがどうにも気にかかる。


 政治的に正しいと自分は感じるが、硬度のないふにゃふにゃの言葉と。政治的にはまちがっているけれども、硬度のあるズシンとくる言葉と。そんな問いが頭をもたげてくる。


 こんな問いを前に進める手がかりを、80年ほど前の文章に求めようかとあぐねているところである。
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by todoroki-tetsu | 2012-12-05 22:15 | 批評系 | Comments(0)

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