「カネと命の交換」

 いやだってば。酒を飲んで真面目な話をするのは好きじゃねぇんだよ。……ああ、そう。そうですか。んじゃあまあいいけどね、どうなっても知らんよ。

 
 じゃあ言うけどさ、脱だか反だかどっちでもいいんだが、原発はおかしいとか止めたいとか、いろんな主張の違いはあるにせよ、とにかく原発に反対する側とざっくりしとこうか、僕も一応考え方としてはそちらのほうだと思っているんだけれどもね。そうした側がいのちを大事にするというか、したいと考えている立場だということ、それは確かにその通りだとは思うんだ。間違いはない。


 じゃあ、原発を推進する側はどうかってことになる。推進を言う人はじゃあみんな命を大事にしていないのか、という話なのよ、考えてるのは。いやだからさ。「命を大切に思うなら原発反対になるはずだ」っていうのはちょっと待とうよ。「はず」って危険だよ。人間として、とか、福島の人のことを、とか、実際に20キロ圏の近くに行くと、とか、そうしたことは申し訳ないけどちょっと脇に置かせてくれよ。正しくないってわけじゃない。正しいと思うよ。けどさ、僕もあなたも福島の人ではないでしょう。それで東京にいて電力を消費している。待った待った、「だからこそのその責任を自分たちが」というのは判るよ。それは僕も正しいと思ってるんだってば。けど、ちょっとその手前で考えたいのよ。ええいもう、この一杯もらうよ。


 ええと。そう。確かにね、もうなんだか勝手に安倍政権になったつもりなんだか知らんけど、それで電力会社の株が上がったとか、そういう話はなんか変だなとは思う。でも、それはそれとして後にしよう。そう、考えたいのはね、「カネと命の交換」っていう、鎌田慧さんの言葉なんだ。「カネと命の交換」、公害や原発と引き換えの経済成長、そういうことだと思うのね。どっちを選ぶの、と。この対比がすごく大事なのは間違いない。


 だけどさ、じゃあ原発を再稼働したいと思っている人が、じゃあカネよりも命が大事と思っているか、っていうと、必ずしもそうじゃない気がするんだわ。いやだから落ち着いて聞けってばさ。確かにね、確信犯的にやっている連中は少なくない。腹黒いうさんくさい連中は絶対にいる。そいつらは確かに「金の亡者だ」みたいな批判をしても、かなりの程度当てはまると思うのね。


 でもさ、そいつらの中のどこかに、あるいは確信犯じゃなくても素朴に考えている人ならなおさらだと思うんだけどさ、「電力ないとやっぱ困るでしょう」とか「景気がよくなんないとしんどいよ」とか、そういうのがあると思うのね。それってさ、命を大事にしていない、っていうこととはちょっと違う気がするんだわ。

 
 ……そう。もちろんもちろん。ほんの少し足を運んだだけでかえって失礼かもしれないけれど、やっぱり実際に荒れほうだいの田んぼだったり、子どもの姿のない町並みとか、錆びたレールとか、そういうのを見ると、原発さえなけりゃあと思うし、おかしいと思う。ふざけんなよ、誰のせいだよ、と。その「誰」の中に、いくばくかは自分もやっぱり入ってる。それを棚上げにして誰が悪いというだけじゃ駄目だよとは思う。確かに僕も告訴人になる書類は事務局に送ったけどね。それではいおしまいじゃないものね。でもさ、その後ろめたさって何なんだろうね。後ろめたさは後ろめたさのままであり続けるんだろうか。


 話がそれていったかな。……ああそうそう、原発推進イコール命を大事にしてないとかカネの亡者みたいな言い方がどうかって話だったね。話変わるようで申し訳ないけどね、こないださ、すげぇ久々に実家に戻ったの。離れみたいにして90歳のばあちゃんが住んでんだけどね、まあ元気は元気なんだけどさ、キッチンがオール電化になってんのよ。子どもたち、叔父や叔母やなんかがよってたかってそうしたらしい。もう簡単な調理くらいしかばあちゃんはしてないんだけど、それみてやっぱり安心はしたのよ。どこまで安全かはしらないよ。けど、やっぱり安心したというのは僕にとっての事実なんだ。そうするとさ、いや、判ってる、それと発電の比率とかコストとかっていうのは直結しないのは判ってる、けどさ、そういう電力による安心みたいなことっていうのはさ、いくら代わりのやり方がいくらあるといってもね、厳然としてやっぱりあるんだなと思ったの、自分の中に。


 それをイデオロギーだとかまやかしだとか、真実は云々とかっていってもね、それだけで通用しないんじゃないか。……判った。通用しないは言い過ぎだね。通用しない場合もある、と言い換えよう。噛み合わない、って言ってもいいかな。そういうことはあるよね。つまり、原発推進=命よりカネが大事、っていう確信犯は別として、命を守るためにある程度は原発も必要なんじゃないの、っていう思いは、けっこうあるんじゃないか。少なくともそういう思いに、「カネか命か」という二者択一は通用しないよね。「命のために電力要るじゃん」で終っちゃう。


  何かこうね、不安とか漠然とした疑問とか、そういうものに寄り添うような言葉じゃないと、いかんと思うんだ。で、そうした言葉っていうのは、何より自分自身の中をしっかりくぐりぬけたというか、うまく言えないけど、そういうものだと思うのね。ゆらぎとか、ためらいとか、そうしたものが含まれた言葉。「指示表出」先にありきじゃないと思うんだわ。あくまで「自己表出」じゃないと、結局のところ響かない気がする。自分が聞く立場になった時にはそうだからかもしれないけど。


 結局ね、こたえられてないと思うんだいまだに。ええと、あの、小学生の手紙。ゆうだい君、そうだ、『「僕のお父さんは東電の社員です」』って本になった、あれ。みんなで議論しましょう、みたいなことで結んでいたと思うんだけど、確かにいろんな議論はこの1年半以上であったと思う。けど、あの男の子が提起したかった次元で自分たちは話を出来ているんだろうかねぇ、と。……判らんよもう。


 ダメだ。もう限界。続きは素面の時にしよう。俺もちょっと整理しないといかん。経営からすりゃあカネにとにかくしなきゃいかんという発想があるだろうけど、そうした発想に通底するものは自分の中にありそうだ、とか、「他者」って何、とかさ。ああそう、肝腎の「カネと命の交換」の話がどっかにいっちまった。自分が思ってる以上に内面化しちゃってんじゃないのか、ってことなの。新自由主義とか自己責任と一緒にね。いやとにかくこれでおしまいにしよう。グダグダになっちまってすまん。お水いっぱい頼む。
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by todoroki-tetsu | 2012-11-22 12:46 | 批評系 | Comments(0)

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