中野重治「五勺の酒」について(その十七)

 共産党が偉いともなんとも思わない。偉い部分は確かにある。そのうちのひとつは、意固地なまでに名前を変えないことであるが、そのことは今の本題ではない。


 誰が偉いとか指導と非指導とか前衛と大衆とかマヌーバだのフラクションだの中央だの末端だの、そんなことはすべて取っ払う。どうだっていいそんなことは。ただ、ある問題に対して気づく。意見を述べる。働きかける。運動をする。理論を知っていた、蓄積があった。そんなこともどうだっていい。みんなに関わる問題がそうやって発見されたなら、別に誰がどうしたとか関係ない。権威なぞ知ったこっちゃない。


 極めて乱暴に、そんな風にいろんなものをぶち壊した上で、考える。校長が、共産党に訴えるという気持ちで思いを吐露するということを。そして、それを受け取るであろう共産党員か、それに近しい旧友のことを。


 校長のいわんとすることは、ぐうの音も出ないほど正しい。それはもとから校長自身の考えていたところもあったろうが、しかし、共産党のものいいに対して「それはおかしい」と思う、そうした思いから固まっていたものも少なからずあるだろう。共産党がこう言った、そのことで初めて自分の中で明確に形になるもの。文章を読むむころ、絵を見ること、それら全部ひっくるめて、やはり他者との出会いによってしかそのような明確化はあり得ない。

 
 ところで、そのようにして形になったものは、往々にしてそのきっかけとなったものへと向かう。「共産党が先きへ先きへと指導せぬのが悪い」。しかも、だ。校長はただ議論を弄んだのではない。学生時代の来歴から今の中学生と接しながら3人の子供を抱え、さらに3人の子供を抱える妹のことを考え、顔をいたく傷つけて帰って来た部下であり理解者である若い教師のことを思い、そして坐りだこのついた妻のことを考え、そしてわずか五勺の酒に酔うのである。校長の言葉はそのまま「訴え」であり「叫び」に他ならない。

 
 では、それに対してこの手紙を受け取った旧友は、何と答え=応えられただろうと考える。おおよそ、こうした場合に考えられる態度はいくつかの型を想定できる。第一に、政治的に論破すること。いや、そうじゃない。君の言っていることはまちがっている。実際にはこういうことだ。だからこちらが正しい。この正しさを判ってほしい。だから僕にしたがうべきだ。第二に、相手の言うことを受け入れること。君の言うとおりだ。まったくそのとおりだ。そうなるように、いっしょに頑張ろう。だから君も僕と同じ陣営に入らないか。


 しかし、第三の型がある。ただ、相手の言うことに耳を傾けることだ。うなずくことは出来るかもしれない。しかし、応答すべき何ものも持ち合わせていない、というそのことを、深くかみしめること。応答なんて出来やしないことを、ほんとうに心の底から理解すること。杉田俊介さんのいう「失語」とは、こうしたものであるまいか。


 第一や第二の型では、けっして「五勺の酒」という作品は出来やしない。失語した/させられた経験を、深く自らに刻み込まない限り、こんな作品は生まれやしない。ならば、失語なくこの作品を読むことは、ありえぬのではないか。失語の先にあるものをつかまえることが果たして出来るか。何度でも何度でも、ここに立ち返ろう。


 ……尽きせぬことばかりだが、ひとまずここで区切りとする。
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by todoroki-tetsu | 2012-11-14 22:21 | 批評系 | Comments(0)

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