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中野重治「五勺の酒」について(その十六)

 もうほとんど終りに近づいてきた。ここで少しばかり振り返っておきたい。


 当初は運動を意識しながら読み始めたことは記しておいた。今こうした作品を生み出さなければならんのではないかということも。それについて、思い起こされる光景がある。いずれもこの間の反原発にかかわる場面だ。


 あれはたしか経産省前だった。記憶が混同されていなければ、今年の2月20日だ。夕方から夜にかけての抗議行動。色んな人がマイクを持ってアピールをされる。この時は非常にテンションが高いというか、ぶっちゃけて言えばかなり粗く強い言葉が続いていた。役人は人殺しだくらいの言葉は平気で飛び交っていた。

 
 そうした怒りは、まっとうなものだと思う。そこまで言わせるものは何なのかという思いで聞きつつ、しかし、やっぱり厳しいなと感じていた。いきおい中心に行くというよりは、少し離れて眺めるということになる。僕はテントの前あたりに立っていて、そこいらに掲示されているいろんなものを見るとはなしに見るなど、していた。


 気づくと、なんだか尋常ではない雰囲気の女性が近くに立っている。声をあげて泣きださんがばかりの様子。この方も色んな思いがあるのだろう。切ないものだ、と勝手に思っていたらいきなり声をかけられる。「あれはどういう人たちなんですか」。答えるべき何ものも持ち合わせていない僕は言葉に詰まった。


 テントでよくお見かけする方が様子を察したのか、すぐにやってきた(お名前は知らないが、よくお見かけする中年の男性の方だ。別の時には抗議行動に難癖をつけてきたよっぱらいを丁寧に対応しておられた。敬服するほかはない)。女性とのお話を始めたので、それを横で聞くのも失礼かとその場を離れた。

 
 何分くらいたったかは知らない。またテント近くに戻ってくると件の女性はいない。カンパついでに先ほどの男性にそれとなく伺ってみると、どうやらこういうことだったらしい。

 
 その女性は福島だか仙台だかのご出身で、立場や具体的なことは判らないが、霞が関で勤めておられる方なのだそうだ。やはり色んな思いがあって、意を決して仕事の後にやってきたが、かなり厳しい言葉で当局を非難している言葉を耳にし、当惑した、と。

 
 普段テントにおられるその方から見ても、やはりその日はいつになく言葉のテンションは激しい日だったようで、「僕らはとにかく言葉でお願いしていくほかはない」ということを基調にしつつ、お話を受け止め、応じられたようだった。


 こうして再現してみて、この微妙なニュアンスとでもいうべきものを記しきっている自信はない。そう間もない時にtwitterでメモしておいた以下のような言葉の方が適切だろうか。


 言葉が「敵」ではなく、味方かは判らないが少なくとも中間地帯にある人を「誤爆」する光景を目撃する。誤爆させた人をどうこういう資格はない。他ならぬ僕自身が、今まで何度となくそうしたことをしてきたのだから。しかし、切ない。 

 
 そもそもかかる言葉を発せしめたのは何であったのか。個人と個人の関係に落とし込むだけでは足りない。そうした表現をとらざるを得ない必然があったのだから。しかし、その必然が共有されない他者はどうすればいいのか。関係を一過性にしないように、と考えるのはひとつのヒントになるかもしれない


 もうひとつの光景。これはもはや具体的にどこでどう見たかは定かではない。ひょっとすると、ネットや何かでの書き込みとごっちゃになっていて、自分の中で区別がつかなくなっているかもしれない。

 
 それは、原発を推進しようという人々、再稼働に賛成しようという人々の中にたたずむ、子どもを抱いた女性の光景だ。子どもをベビーカーにのせていたのか、抱きかかえていたのか、あるはそのそれぞれであったのか、もはや判らない。しかし、その女性の表情は切実だ。ダルな感じで「サーヨークー、デーテーケー」というのとは訳が違う。


 反原発を表す言葉の中で、こうした光景は再現できなければならないと思う。そしてそう思う僕自身が、たとえ僕の力では及ぶべくもないことであっても、努力しなければならない。意図して挑発する意味での「誰かがやってくれよ」が、言葉のうわっつらとしてのみしか許容されないものとして。自分が出来ないのは判っている、ならばせめて可能性だけでも探りたい。


 ――いずれの光景も女性に関係しているというのは、おそらく僕のジェンダー観と無関係ではあるまい。坐りだこへのまなざしに共鳴するものとも連なるだろう。が、それが何だかは判らない。開き直るつもりもない。ジェンダーに関わる領域とそうでない領域が混在しているのを自認することまでしか今のところは出来ない。他者の力が必要だ――


 「五勺の酒」から、では何を引き出し得るか。「批判的な意見も柔軟に取り入れてすごいですね中野さんは」、ということではもちろんない。そんな程度であれば、僕の心は惹かれはしない。「共産党に近しいながら批判する人の思いを内在化している」。少し近づいてきた気がするが、足りない。「共産党だろうがなかろうが、まっとうな庶民感覚を描いた」。これも悪くはないが、やはり不十分だ。


  「死者をおそったそのものに君自身どう対したかしらべずには決して死者を誇るな」。この言葉を念頭に置いて、以下を読む。「出征」の「征」を「ゆく」と読ませてくれといった国語教師、すなわち校長のもっともよき理解者であるところのこの教師・梅本が戦地から帰ってくる。出征前の美男ではない。「耳は耳たぶ二つともなし、鼻は突出部がなくなってじかに孔だけあり、くちびるは歯ぐきすれすれの線まで取れたという形で帰ってきた」。


 梅本と話すのは、彼の家族以外は天下に僕ひとりだ。僕が困るのは、相手の目だけ見てでなければ話ができぬことだ。耳や口はまだいい、鼻の部分へ目をやるまいとするのは僕としてひととおりならぬ努力が要る。美男美女でないからよくはわからぬが、僕は美男美女としての彼ら二人のこと、特に細君のほうを考えてその言いようのない惨酷に目の前が暗くなる思いをする。とにかくにも惨酷だ。よし子のことを考え、考えることをよし子に気の毒と思いつつ、玉木がこんなで帰らなかったのをいいことだったとさえ思うことがよくある。そうして、死んだほうがよかったと考えるような人が日本でどれだけあるかと考えて心が落ちこみそうになることがある。それは、梅本の細君が梅本をいやになることがありはしまいかと懸念するというようなことではない。不穏当な言葉をいとわねば、梅本夫人における梅本の美しい肉体の破壊が、よし子の出版のことで玉木を悲しむなんどより、どれだけ深刻かはかり知れぬ気がすることがあるということだ。どうか共産党よ。このことを知っていてくれと叫びたくなることがあるということだ。実際ただ、天皇と天皇制とまで行かねばすべてを取りあつかう条件が出来ぬのだ。


 死者をおそったそのものが、梅本に、妹のよし子に、そして自分自身に、ひたひたと迫ってくる。その何ものかに真っ向から立ち向かうべき共産党が、ちゃんと向き合っていない。気づいているのは自分だけか。とぜねがら酒飲め。「このことを知っていてくれと叫びたくなる」。

 
 その叫びが直接天皇にではなく共産党に向かうのは、なぜか。そのような認識を校長にもたらすきっかけが共産党にあったからに他ならぬ。敵か味方か、批判か反批判かという外面の下にあるもの。上っ面ではない、共闘への欲求。傷つけながら惹かれあう何ものか。

 
 ここから、「予め自分の中にあるもの」と「他者と出会うことによって内部からうまれくるもの」との関係を引き出すことができる。これは、「運動」あるいは「問題」を考えるにあたって外せない関係だ。


 

by todoroki-tetsu | 2012-11-12 11:45 | 批評系

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