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中野重治「五勺の酒」について(その十五)

 前回、敵対し合う関係に終止符を打つのが死者であり、それに通ずる言葉である、と記した。終止符というのは正しくないかもしれない。その関係性はうわべはたしかに終るだろうが、内実としては、ともに手を携えて別の次元に行くというのでなくてはなるまい。どうあっても他者の力は必要なのだが、生きているものどうしの一対一すなわち「二人の次元」のみならず、実はすでにそこに三人目の他者=死者の存在が、ありはしないか。

 
 一般的に言って、人の死なない日は一日たりとてない。同時に、人の生まれない日も。毎日どこかで誰かが死に、誰かが生まれる。そんなものだと斜に構える前にやはり感じなくてはならないのは、あの時あっという間に、あるいはあの時から苦しい時間を経て、命を落とした方がおられるということ。あの時から継続している苦しさになお、さらされている人が少なからずおられるということ。そして生き延びることが出来た方々も、間近で失われた命を見てこられたのだということ。そういうことを前に、何かが僕に言えるなんていうのは驕り以外の何ものでもない。「五勺の酒」いうところを聞こう。

 
 何よりもあれを止めてくれ。圧迫されたとか。拷問されたとか。虐殺されたとか。それはほんとうだ。僕でさえ見聞きした。しかし君自身は生きているのだことを忘れないでくれ。生きている人よ、虐殺された人をかつぐな。生きていること、生きのびられたことをよろこべよ。そうして、国民が国民的に殺され拷問されたことを忘れぬでくれ。このことを考えてみてくれ。たくさんのわる気のない青年が、こちらから拷問し、暴行し、虐殺しさえしたのだということを。彼らのあるものは、この辺でもあった、国内ででさえ、工場近くの村むすめたちに集団的に暴行したのだ。暴行される域を越えて、自分から暴行するところまで追われ暴行されたのだ。いま生きて、君らの話を演壇の下から聞いている青年ら、彼らは、殺されなかったということそれ一つでいま生きてるのだ。たくさんの人が殺されるのを見てきた。たくさんの仲間の死骸を捨ててきた。場合いかんでは殺しさえして生きのびてきたのだ。そのことを知り、しかも彼らには、彼らを正しく支える精神の柱が与えられていなかったのだことをよく知ってくれ。死者をおそったそのものに君自身どう対したかをしらべずには決して死者を誇るな。


 戦争、それにともなう圧迫や弾圧。それらからの解放。そうした文脈と2011年3月から顕在化したもろもろのもんだいを、安易に結びつけることは無意味だ。けれど、死者にたいする態度は、十二分に学ぶことができる。

 
 命を失った人は、身近な人には何かしら語りかけるような、そんなことがあるかもしれない。そうした臨在はあるだろう。僕は直接よく見知った人を失ってはいない。そんな時に、どういう態度をとるべきか。


 「死者をおそったそのものに君自身どう対したかしらべずには決して死者を誇るな」。


 地震や津波に、どう対したかと言われると答えに窮する。けれど、万が一そうしたことが起きた時のために、予めの準備をしていたか。個人としての備えを言うのではない。社会としての備え。地震や津波だけが死者を襲ったのでは、おそらくはない。そして起きた後にどのような対応が社会として、政治として為し得たか、あるいは為し得なかったか。そして、原発事故とその対応……。

 
 そうしたことを、自分なりに引き付ける努力をまったくしなかったわけじゃない。しかし、根本的に欠けていたのは、それらを「死者をおそったそのもの」として捉えること、そして自分自身が「どう対したか」をしらべる姿勢だ。ここを棚あげしてしまってただの懺悔に終ってしまったら、何の意味もない。若松英輔さんの言われること(「死者がひらく、生者の生き方」、『死者との対話』)が、じわじわと効いてくる。

 
 が、ここは「五勺の酒」に話を戻そう。
 

 そもそもこの作品を書きながら読み始めた当初は、「運動」のド真ん中にあった中野重治が何故こうした作品を書き得たのか、こうした作品が今においてなお生み出されなければならないのではないか、そういう思いがあった。それは今も変わらない。けれど繰り返し繰り返し読むうちに、そういう気負いは自分の中で鳴りを潜めていくのが判る。自分がこの作品から何を得られるか。どこに沈黙を強いられるか。


 「死者をおそったそのものに君自身どう対したかしらべずには決して死者を誇るな」。


 この一文が自分に突き付けられる。なぜ突き付けられると感じるかを考えていくことが、中野が造形した校長の心情へ連なっていく道ではあるまいか。その道の先には中野その人がいる。中野その人の向こうには、その時代に生きていた人と死者とが、同時にいたに違いない。


 そこに触れたい。その触れた手で、いま現在をつかみなおしたいのだ。



 

by todoroki-tetsu | 2012-11-11 21:29 | 批評系

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