中野重治「五勺の酒」について(その十四)

 「僕らはだまされている。そして共産主義者たちがだまさせている。これが僕個人のいつわらぬ感じです」と記した校長は、「なぜ」という問いを具体例をいくつもあげて問うていく。共産党、あるいは共産主義者に対する疑問。怒りもあるかもしれない。どれひとつとってもまっとうなことだ。だが、この執拗さは何によって生ずるのだろうか。


 新人会に拒絶され、さびしい思いを抱き、しかしながら子どもたちの前青春期を守ろうと軍人教官とやりあい、妻の坐りだこを慈しみ、わずか五勺の酒にクダをまきつつ、子どもの、あるいは未来への、未練を認める。手紙を誰にあてたかは知らない。共産党員か、それに近しい人なのだろう。

 
 運動あるいは何らかの問題に具体的に関わっている人に対し、それに比較的近しいと自覚している人が、その自覚の故に厳しいことをぶつけるということは、ありふれた光景だ。ある時は突き付け、ある時は突き付けられ、そんなことに心底疲れてしまった僕には、それをありふれた光景だということだけしかもはや残されていない。


 突き付ける側に立つ時、それが悪しき「評論家」でないならば、一定の自負のもとに何かを突き付けているわけだ。自分ならこうやる、自分はこうやっている、お前のやり方はダメだ、お前は判っていない、オレハオマエノシンパナノダゾ……。もんだいはふたつある。


 ひとつは、善意であれ悪意であれ、こうした批判の中には、もちろんのことながら相当程度の正しさが含まれているということ。


 なぜ共産主義者が、むかしその運動が思想運動といわれたことがあったのを忘れたかのように、国民の思想的啓蒙の仕事を原論の稀釈にこんなにまだまかしているだろう。


 共産主義者に対して、これほどまでに手痛い、まっとうすぎるほどまっとうな批判があるか。政治か文学か、という問いのたて方がどれほど有効か知らない。けれどおそらくこうした批判に、政治では答えられぬだろうと予想はできる。政治的な正しさでは解決しない何ものかが執拗さとなって現れる、そのように思えてならぬ。何を思って中野重治はこれをえぐり出したか。批評家に任せる。ただ僕は驚嘆するだけだ。


 もうひとつのもんだいは、果たして突き付ける側は、共産党や共産主義者が存在していなかったあるいは何かを言ったりやったりしていなかった場合には、自分自身の意見を自覚していたのか。誰かが何かを言ったりやったりした時はじめて、自分の中の何かが駆動する、そんなことがありはしないか。


 僕はいつか『アカハタ』でメカケのことを読んだ。事がらは忘れたが、メカケにたいする軽蔑の気味がその文にあった。メカケを軽蔑せよ。それは軽蔑されるべきだ。しかし共産主義者よ、メカケが一人のこらず女だったこと、弱い性だったことを思い出してくれ。女でも金持ちはメカケにならなかったことを思い出してくれ。美しい、たのしい肉体、彼女らはそれ一つをつかうほか生きる手段がなかったのだ。メカケをメカケ所有者から切りはなさぬで考えてくれ。しかしメカケ持ちについてさえ考えてくれ。家とその法とが、そんなことでやっと恋を恋として変則に成り立たしたこともあったろうことを考えてくれ。


 メカケにたいして、メカケ持ちにたいして、このような見識を予め校長が持っていたか。こうも具体的になったのは『アカハタ』の一文を見てからであろうことは想像に難くない。だから共産主義者の存在は有意義だとか、そんなことを言いたいんじゃない。おそらくもっと普遍的なことだ。どっちが偉くてどっちが正しいとか、そういう次元じゃないことをイメージしている。以前にも引いたが、今一度。


 たとえば僕にとって、文章を書くことで生きると覚悟した人は、たとえ主義主張が敵対していても、その人がいなければ空間が成立しないという意味では否応なく味方でもあるわけです。そのように敵対性を回転させるものが資本のなかにある。


 大澤信亮さんの言葉だ。この言葉は「資本」あるいは「市場」を巡ってのもの。天皇制、家、あるいは民族道徳がもんだいとなる「五勺の酒」に、そのまま引き寄せるのは強引に過ぎる。けれど、何かが通じている。メカケを軽蔑した『アカハタ』と、いやそうじゃない、じっさいのところをもっとよく見てくれと切々と訴えかける校長との関係。野合でも慣れ合いでもつぶし合いでも相互無視でもない関係。物騒なことを言えば、生かしながら殺しあい、殺し合いながら生かす、そんな関係。

 
 そんな関係がもし成り立つとするならば、両者を紡ぐものは何であるか。資本なり天皇制なりはハードとしてある。しかし、執拗さはそれらによって解決することはないだろう。永遠のたたかいが繰り広げられる。それに終止符を打つプログラム――それは死者であり、それに通ずる言葉である。



 
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by todoroki-tetsu | 2012-11-09 23:11 | 批評系 | Comments(0)

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