断想以前


 墓参の衝動にたえかねる、というのが我ながらよく判らない。だったらせめて生きている人間を、いまともにいる人間を、その衝動と同じくらい大切にせよ。理屈では判るが、それ以上に墓石の前に手をあわせたいとはやる気持ちは抑えられない。

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 墓参には欠かさず携えるマルボロを、忘れる。いつも墓参前に立ち寄るコンビニに入るまでは覚えていた。出た時にはすっかり忘れて、寺門前で思い出したものの、まあいいやと開き直る。たぶんこれが二回目だ。いつも線香代わりだと墓前で喫むのがならいだが、僕には成分が強すぎてくらくらしてしまう。落ち着いて話すにはないほうがいい、と生きている側で勝手に理屈をつける。奴がどう思っているか知らない。

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 手は合わせるし花も線香も人並みには供える。いざ墓と向き合ってみると、存外言葉は出てこないものだ。それでいいかも知れない、というよりほかにどうしようもない。よく判らない時間が過ぎる。何か話たいことがもっとあったはずなのだが、とも思う。不思議なものだ。それで自分の衝動がひとまずは落ち着いたのは、たんに形だけのことでもないだろう。

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 墓参せずとも会えているのかもしれない。さりとてここで向き合うことが意味のないことだとも思わない。いにしえの人々は様々な儀式や手順を踏んで魂と、神と、そしておそらくは死者に、触れあった。ならば、現代に生きる我々も、まったく何の準備や儀式もなしに死者と出会うことは出来ないというものではないか。一定の修練をしていれば別かもしれない。

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 形式的なことばかりまねてもしょうがない。自分の心の準備を整える、そういうことであればおそらくなんでもよいのだろう。自己啓発というのはそもそも宗教、特にキリスト教から出たものだと聞いたことがある。間違っているかしらん。が、なるほどそうだと思わせるものはある。自分なりのやり方を見つけること。騙されないように、騙さないように。誤らないように、誤らせないように。

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 そろそろ辞去しようかという時、次はマルボロを忘れずに持ってくるから、まあひとつ今日は勘弁してくれやと軽い気持ちで声をかける。おまえと俺の仲だとまでは言わないが。ふと最後に病室で見た顔を思い出す。そういやあの時も「また来るからな」と僕は言ったはずだ。それが生前交わした最後の言葉であった。ある時期まではその言葉に対する罪悪感めいたものが墓参には付きまとっていた。今でもないとは言わない。けれど、随分と肩の力は抜けるようになってきた。今回は特にそうだ。「また来るからな」、その言葉はまちがっていない。そう素直に言える。奴が何か言ってきても「だから来たじゃないか」と軽口をたたけそうな気がする。不遜だろうか。

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 いよいよ帰る時、墓周りを片づけながら、雑談めくように「そういやさ、最近小林秀雄を読んでんだよ」と言いかけて、口をつぐんではたと気づく。あの時は奴のほうがおそらく色んな本を読んでいたろう。特に、何も奴とだけではないけれども、いろんな連中が競い合うようにマルクスだのエンゲルスだのレーニンだのを読み漁ってもいて、マルクスとエンゲルスはおそらく僕よりもあいつのほうが読んでいた。レーニンはたぶん五分だ。いや、それも負けていたか。しかし、小林秀雄はお互いに見向きもしなかった筈だ。僕はあれこれあって今小林秀雄を面白いと思って読んでいる。別段マルクスだのなんだのが面白くなくなったということではないが、少なくともあいつは生きて小林秀雄を読むことはなかった。それは、どちらがいいとか悪いとか、幸か不幸かとか、そういうことじゃない。ただ、そういうふうに時間は過ぎて行く。ただ、それだけのことだ。
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by todoroki-tetsu | 2012-11-05 21:18 | 批評系 | Comments(0)

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