中野重治「五勺の酒」について(その十二)

 校長の頽廃に対する怒りとでもいうべきものは続いて行く。「アカハタ」の記事へのコメントがもうひとつあるけれども、飛ばして先に進む。

 
 天皇、臣問題、教育勅語、人間性、すべてこういう問題のこんな扱い方に僕は腹が立ってくる。せっかくの少年らが、古い権威を鼻であしらうことだけ覚え、彼ら自身権威となるとこへは絶対に出てこぬというのが彼らの癖になろうとしている危険、そしてこれほど永く教師をやってきたものにとってやりきれぬ失望はないのだ。このことでかさねがさね失望をなめながら、それでも新しい希望が目の前に出てくること一つでわれひとともに教師がつとまるのだ。わるいあの癖こそが頽廃なのだ。


 「彼ら自身権威となるとこへは絶対に出てこぬ」というくだりが僕にはちょっと判りにくい。が、ニュース映画について述べた部分で生徒に対して「それなら千葉の女学生に手紙を書け。先生・生徒両方へ書いて討論しろ。僕の生徒らはどうしてもそれはやらぬのだ」とある。おおよそこうした意味だと解釈しておきたい。


 さて、ここで考えたいのは共産党にたいする校長の考え方、より正確には校長が何をもっともたいせつにしようとしているか、である。もう少し読み進めてみようか。


 問題は共産党だ。共産党が問題を先きへ先きへとやってくれれば僕のようなものが助かるのだ。僕は我利我利ではない。ただ僕は教育者だ。天皇制廃止は実践道徳の問題だ。天皇を鼻であしらうような人間がふえればふえるほど、天皇制が長生きするだろうことを考えてもらいたいものだ。そんなものがもし若いもののあいだでふえたらどんなことになるだろうか。


 おそらく、2012年現在の感覚からして、当時の共産党の存在感を想像することは容易なことではないように思われる。ある程度の期待もされていたのだろうが、その一方で否定的な意見も根強くあったろう。しかし、いずれにせよ一定の存在感はあったのは確からしい。


 例えば60年前後、70年あたりまでの様々な運動や言論の中で、共産党――ある時期からはおそらく正式には日本共産党と言った方がよかろう――は、シンパであれアンチであれ、念頭にはおかれる存在ではあったようだというところまでは、感覚として何とかさかのぼることができる。単純に、親の世代で多少は親しみがあるからというだけの心もとない感覚だけれども。しかし、このあたりの年代からの漠然とした感覚と、「五勺の酒」の同時代である1946年の感覚とはまた異なる部分がだいぶんにありそうな気がする。そのあたりがごっちゃになっているかもしれないという懸念を記した上で、考えてみたい。


 共産党というのはある世代なり立場なりからすれば、非常に大きな存在として観念されるように思われる。その例を、吉本隆明さんと浅尾大輔さんの対談に見出すことが出来るだろう(「論座」2008年9月号)。僕から見れば、なんでそんな強大な存在に映ったのか、正直よく判らないでいる。そうした時期もあったのだろうが……。

 
 確かに、局面局面では様々な摩擦や軋轢はあり得る。が、そんなに声高に反対を叫ばにゃあいかんほど目障りか。そうかもしれない。けれど、そんな大した力もありゃしないじゃないか(但し、個人レベルですごい人は結構いると思う)。一致すれば一緒にやればいいし、ダメならそれまでのこと。お互いの利害が一致するかどうか。お互いに利点が見いだせたらそれでいいんじゃないのか。

 
 何かこう、反・共産党のスタンスや批判には、確かにうなずける部分もあると思うのだけれども、肝腎の共産党のほうの内実が良くも悪くも変わって来てるんじゃないのか、という気がする。「強大なパルタイ」みたいなのは幻影なんじゃないか。しかし、幻影だから滅びてよいとは思わない。共産主義を口に出来ない社会は、自由からも民主主義からも遠く離れたものだから。


 期待と裏腹の批判、というのはもちろんある。いきなり話を戻すと、校長は少し先のところでこうも述べている。


 ……共産主義者よりももっと共産党を心配している男というふうにすら自分を考え、思いこんでおかしくなることがある。そこで気づいたことが今夜その一部を書いたようなことだ。十六か十五ぐらいの少年たちが、山林何町歩、資本いくらというような面でだけ天皇を論じてそれ以上進まぬのが僕にはいちばん気にかかるのだ。今うんと伸ばさねば政府が網をうってさらって行くように見えてならぬのだ。


 
 「共産主義者よりももっと共産党を心配している男というふうにすら自分を考え、思いこんでおかしくなることがある」。なるほどそうした思いからの言葉というのは確かに、ある。それはたいせつなことだし、よく意図をお互いに理解し合わなきゃいけない。けれどもそれは実に困難なことだ。それを実にうまく描いていると思う。

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 何べん読み返しても、こうした共産党への意見を述べた部分は、「共産党にそんなにこだわらんでもよろしいじゃないですか」という気持ちが抜けなかった。現在はいわゆる既成政党や各種団体に頼らずに――もちろん必要以上に敵視する必要もあるまいが――個人がどんどん自分たちでやっていく時代ですよ。1946年とは様変わりです。だからといって作品の価値が低くなることはありません。中野重治が共産党を外から見ている人の気持ちを敏感に感じ取り、作品にした、その感覚は素晴らしい。

 
 ……だが、そんな程度の感想でよいのだろうか。何かを見落としている気がする。


 思考を進めるための試みとして、共産党という言葉を、何らかの運動体や個人に置き換えながら読んでみる。そうすると、「何らかの主義主張を持って運動し発言する何ものか」に対する個人としての態度そのものが、抽出できるように思われてくる。そのように考えた上で、上記の引用を読む。


 「問題は共産党だ」。「問題を先きへ先きへとやってくれれば僕のようなものが助かるのだ」。「共産主義者よりももっと共産党を心配している男というふうにすら自分を考え、思いこんでおかしくなることがある」。共産党を現在活発に動いている運動体や個人に置き換えればよいだけのことだ。とたんに現在に引き付けられるだろう。

 
 そうした読み換えからは、「批判の裏に隠された期待を読み解くことは大事」とか、「誰かに過度に期待せずに自分でやればいいじゃないか」とか、そうしたことがすぐさま言えるだろう。それはそれで悪くない。だが、どうもそれだけではないように思うのだ。

 
 ――「問題は共産党だ」。たしかにその通りだろう。しかし、この部分だけを読みとってどうするというのか。何にとって問題だと思っているのかを読め。

 
 何べんめかの読み返しの時にそれは突然やってきた。そのようにもういっぺん読み返してみる。そうすると、共産党に対して微妙な感情――新人会の体験、さびしさ、そして「とぜねがら酒飲め」――をもちつつも「五勺のクダ」をまく校長の中に、「今うんと伸ばさねば」ならない「十六か十五ぐらいの少年たち」を「新しい希望」として何よりもたいせつに思う姿が浮かび上がってくる。


 そうだ。ここが原点だ。共産党は二の次だ。共産党以外のなにものかが「新しい希望」を邪魔するようであれば、校長はやはり精一杯の努力をしていくだろう。ここを踏まえずして「問題は共産党だ」といった言葉を読んではいけない。

 
 さらに言えば、校長にとっての「新しい希望」にあたるような、そういうものをお前は持っているのかどうか、持っているとして、そのために何をしているのか。そう問われているということになってくる。
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by todoroki-tetsu | 2012-11-02 10:16 | 批評系 | Comments(0)

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