イベント:「2012年脱原発デモ その後の展開」

 イベントとしての『脱原発とデモ―そして、民主主義』といおうか。昨日高円寺で行われた、鎌田慧さん・松本哉さん・雨宮処凛さんのお話について。「読書人」ならびに筑摩書房さんのサイトでものちのち紹介されるそうだ。


 先ほどまじまじと、執筆者名がデザインされた本の表紙を見ていて気づいたのだが、「原発いらない福島の女たち」をのぞき、年長者から順に配置されているようだ。三人のお話の中でも鎌田さんがしばしば「若い人たち」と言われ、松本さんに話を振っておられたのがよく判る。ここが、もんだいだ。


 こういう場に出てくる年長者というのはわりあいにいけすかないタイプの人が多いものだが、鎌田さんは違う。今までに何度かお話を聞いていてその安心感はあった。「旧い運動がもたもたしている間に、若い人たちが素早く新しい運動をやってくれた」みたいなことをおっしゃっていて、その口ぶりは自分たちは自分たちでやれることはやるけれども、若い人を含めた他の人のやっていることも応援したいという気持ちがある、そんな風に感じたのだった。

 
 その上で記すわけだが、もう若くはないのだ。松本さんは僕よりひとつ上の1974年生まれ。確かに1938年生まれの鎌田さんから見れば若い。けれど、30代の半ばを過ぎた。数年前、どこかで東浩紀さんが、正確な文言は忘れたけれども「僕ももう38ですよ。若いもの扱いされるけど、もうそんな歳じゃないです」といった発言をされていたのを思い出した。


 何かしらものを書いたりしたものが商業流通に乗るためには一定の経験や実績が必要で、その意味では20代やせいぜい30歳ちょっとくらいまでの人の言葉が、本になりにくいのはよく判る。もう少し時が経てば変わるのか、どうか。しかしなぜだか最近、持たねぇぞこのままじゃ、という想いにかられる時がある。「毎日」での丹念な連載「リアル30’」が単行本になるようだが、内輪話で終わるでなく、他の世代といかにうまくやっていけるかと考えるのはほんとうに難しい。明らかに制度の問題はデカいのだが、それだけでもやはりなかろう。うまく言えないが、このへんの問題は色んなところで今しばらく出てくるような気がする。


 3・11以前と以後をつなぐもの。諸悪の根源としての「派遣法」、それに対抗する様々なプレカリアート運動、生活保護の問題、被災地での雇用と生活……。「カネと命の交換」と鎌田さんが指摘した、その言葉に収斂していくように思われる。

 
 だが、会社勤めで商いをしている僕は、「カネと命の交換」の論理が思いのほか自分の中に沁み込んでいることを徐々に自覚している。こうして出かけてイベントの場で話を聞いて溜飲を下げるだけではだめだということを知っている。さりとて、本は商品ではない、などとたわけたことをぬかすつもりもありゃしない。さあ、どうするか。


 しばしば雨宮さんが言われたように「いがみあう必要のない人たちどうしがいがみあっている、そうさせられていること」への疑念、あるいは怒り。そうしたことさえ忘れなければ、何か見えてくるものがあるかもしれない。


 
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by todoroki-tetsu | 2012-10-29 21:16 | 運動系 | Comments(0)

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