本としての『脱原発とデモ―そして、民主主義』

 正直なところ本じたいにあまり興味はなく、ただ、昨日28日に行われた鎌田慧さん・松本哉さん・雨宮処凛さんのお話は聴きたいと思った。聴くからには事前に読んでおかねば失礼だ。前日からあわてて購入し、開演前には読了した。イベントについては別に書こう。まずは、本としての『脱原発とデモ―そして、民主主義』について。


 本じたいにあまり興味がない、というのはほんとうに実感としてある。もともと運動系の書籍には一定の距離を置くようにしている。近親憎悪というと失礼か。自分が多少なりとも一参加者として関わる運動ならなおさらだ。処世術という側面は無論ある。が、それ以上に、「手前の感覚で下手に盛り上がってはまずいんじゃないか」という自制が過剰に働くのだ。それは、けっして悪いことではない。もはや、若くないのだから。この点はイベントについて述べる時に触れる。


 各々の方が各々に書いておられており、それに対しての感想を少々記してみたいのだが、まず先にひとつだけ気になることを記しておきたい。p.170だ。

 
 小見出しには「5.ポリフォニーの行方」とある。本文には「多声音楽」というルビなし表記(同頁)と「ポリフォニー」(P.171)という表記が見られる。表記のゆれも気になるが、それ以上に気になるのは、ポリフォニーという言葉はこういう文脈で用いられる時、注釈もルビも何もなく「多声音楽」と等号で結びつけられるほど一般的で知られた用語なのかどうか、ということだ。

 
 運動の文脈におけるポリフォニーという言葉は、すぐさま小田実さんを想起させるだろう。俺は判っているぜと言いたいのじゃない。多少の予備知識が、ひょっとすると求められる用語なんじゃないのかという疑念である。誰に向けて届けるのか。用語を使うなとは言わない。本文の「多声音楽」のところに「ポリフォニー」とルビを打てばそれで済む。それだけのことだ。それだけのことが、なぜ見落とされるのか。こうしたところが気にかかるのだ。繰り返す。誰に向けて届けるのか。もちろん、僕の感覚が間違っているのなら素直に引き下がるつもりだ。


 さて、本そのものに触れていこう。やはり自分が読む手を止めてしまうのは、こうした個所である。感想の総論としてまずここから。


 原発の問題は、確実にそれが、ある人々に過酷な負担を押しつけることです。いくら大多数の人がそのことによって恩恵を受けるとしても、決してこのような非民主的な技術の存在を認めることができません。
                                           毛利嘉孝(P.39)


 泣き寝入りだけはしたくないって部分は強い。あまりにも理不尽、不条理を押し付けられている人たちがたくさんいるわけじゃないですか。それはもう間違いなく明日の僕たちの姿ですもんね。
                                           山本太郎(P.58)


 これらを念頭において「原発いらない福島の女たち」としてまとめられた言葉(P.132-6)を読むとき、僕は沈黙を強いられる。ちょっとやそっとデモに加わったくらいで、やった気になるなよと思う(自分に対して、だ)。福島原発告訴団についても。ならばもう、考え続けるしかないのだ。

 
 次いで各論的に三点ほど。第一に、鎌田慧さんのエッセイから(P.85)。

 
 原発推進派が反対運動に追い詰められてもちだしてきた論理は、「カネと命の交換」である。原発に反対すると、食えなくなるぞ。公害企業への逆戻りである。70年代の公害反対のスローガンは、「公害の空の下のビフテキよりも青空の下でのおにぎり」などだった。死に至る繁栄よりも、身丈にあった経済生活を、である。


 「公害の空の下のビフテキよりも青空の下でのおにぎり」。なんとも素敵なフレーズではないか。そうした蓄積を、この社会というのは持っていたんだなと思う。そんなに昔の話じゃない。自分の親よりは上かもしれないが、せいぜい祖父母くらいまでさかのぼればじゅうぶんだ。山下陽光さんが「抵抗の発明者を発見しまくりたい」(P.30)と述べておられるのに共感をおぼえもする。「カネと命の交換」に関しては、生活保護の問題をつなげていたイベントでの雨宮さんの発言ともかかわってくるのでそこに譲ろう。


 第二に、さて、抵抗の蓄積を発見し、それを掘り起こし、活かす。実践する。ここで重要なのは松本哉さんの発言だ(P.126)。

 
 革命後の世界を先にやっちゃったほうがいいんだ、みたいなことを言ってると、けっこう真面目な人からは共産主義革命ですか? 社会主義? 民主主義革命ですか? とか聞かれるんですよ。そういうことを質問する時点で人任せだと思うんですよ。


 自分たちでやるということの大切さやおもしろさ。おそらくはむずかしさを十分に体験した上でやっておられる松本さんが言うその言葉を、「消費」せずに受け止めたい。「消費」するのはかんたんだ。適度に礼賛するか、あるいは、適当に自分自身の理屈を構成するピースにしちまえばよい。

 
 まず、自分たちでやっちまおうという精神はまっとうなものだと思う(卑近な例だが、職場でもある程度そうした精神であれこれをやっちまえと思って好き勝手やることがある。引き際は見定めるが)。真面目な人からの質問を「人任せ」とするのも小気味よい。自分でやれよ、と。そこは大変に共感する。

 
 だが、背後からそっと忍び寄るのは、中野重治「五勺の酒」を読む中で判らなかった部分、すなわち義理の弟へのわびと天皇の満州皇帝へのわびとが分かちがたく結びつく部分だ。僕がこの部分が判らないままなのは、松本さん的な考え方を多少なりともしているからだと思うのだ。天皇は天皇、国家は国家、自分は自分。自分たちでやろうじゃないか、と。それが理由で「五勺の酒」が判らないなら、致し方ないかもしれないとも思う。

 
 けれど、実のところはどうか。ひょっとすると否が応でも考えたり何かを要求されたりしてしまうんじゃないのか。そうしたことがいつかやってくるのではないか。そんな思いに囚われる。たとえそんな時でも、おそらく松本さんは動じないだろう。松本さんの言葉を消費せずに受け止めようとするなら、自分もまたそうであらねばならない、いや少なくとも努力はし続けなきゃいけない。


 第三に、田中優子さんのエッセイをあげておきたい。田中さんの文章を、あまりまとめて読んだことはないのだが、このエッセイは鬼気迫るものを感じる。次の部分は、この本の中で僕がもっとも惹かれた個所(P.151)。

 
 近代で一揆に近いものを見せたのは、チッソ株主総会(1970年・大阪)における水俣の人々であった。彼らは巡礼の白装束に笠をつけ、手に鈴を持って社長を取り囲んだ。神意ならぬ亡くなった方々の魂によって個々の利害を超え、一揆してテロル(恐怖)の存在となったのだ。水俣闘争から多くの文化が生まれたのは、理不尽への真の怒りと、死を見つめるまなざしがあったからである。


 この記述の少し後にある、「デモは怒りの表現であり、求めずにはいられない要求をもっているのだから、明るく楽しいはずがないのだ」(P.151)という言葉に対しては、そういうデモもあるし、そうでないデモもあるのでは……、と及び腰にしか答えられない。だが、「神意ならぬ亡くなった方々の魂によって個々の利害を超え」「理不尽への真の怒りと、死を見つめるまなざし」という言葉の前にはぐうの音も出ない。

 
 若松英輔さんが『魂にふれる』や、『死者との対話』などで繰り返し「死者論」を強調されていることの意味は、ここにつながってくるような気がしてならない。
 

 最後に補足的に二点ばかり。ひとつめは、サブタイトルにある「民主主義」。民主主義の問題といえばそうなんだろうけれども、何かこう、釈然としないものが残る。民主主義という言葉の定義の問題かもしれないし、民主主義の問題という側面があることも疑わない。しかし……。上原專祿は「独立」といった。そのことが気になっている。

 ふたつめ。これがほんとうに最後。武藤類子さんの昨年9月のスピーチがおさめられている。『福島からあなたへ』で収録されたのと同じ内容。これはこれでありだろうからケチをつけるつもりはない。しかし、いざ武藤さんの言葉に触れたいと思った時、文字の組み方・写真の配置に細心の注意が払われた『福島からあなたへ』が、ちゃんと作られていてよかったな、と思った。
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by todoroki-tetsu | 2012-10-29 19:40 | 運動系 | Comments(0)

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