白川静『漢字』

 白川静さんの『漢字』を、あいまあいまに読み進めていた。若松英輔さんの影響による。


 仕事上のかかわりからどうしても入っていかざるを得なかった吉本隆明さん、そのおかげでかなりいろんな世界を知ることが出来たのだが、おそらくこの一冊も、そうした経緯と経験を積んでいなければ読めなかったかもしれない。とにかく難しい。旧き佳き岩波新書だ。懐かしんでばかりもいられない。自分を括弧に入れられない、読者として、書店員として。

 
 細かいことはさっぱり判らない。けれど、吉本さんが「歌」をさかのぼったように――それには折口信夫さんの蓄積を大いに活用したであろう――、その初原にまでさかのぼる、その姿と重ね合わせながら読んでいた。今となっては埋もれきっている何ものかを明らかにする興奮。実証がどこまで出来るか知らない。しかし、何ともいえず訴えかけてくる何ものか。


 何せ「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあり、ことばは神であった」という言葉から始まるのである。具体的に取り上げられるのは古代中国であり、それを手がかりとする古代日本への想いであろう。その時に生きていた人間が何を感じ取っていたか。今なお何か惹かれるものがそこにあるとするならば、そこには人間が人間として受けついでいる何かがある。

 
 僕が知識がないから間違っているかもしれない。しかし、感覚として、白川さんは確信を以て字源の意味するところを書いている。反証する根拠はおそらく無数にあるだろう。それは古代の音韻論などでも見られることだろう。けれど、自分自身に血肉化した解釈には揺るぎがない。さりとて独断という感はまったくない。大きな何かをつかんだ上でものを言っている。そういう印象を受ける。例えば「歌謡について」と小見出しのついたセクション(P.131)。


 ことばが、神とともにあり、神そのものであった時代に、神と交渉をもつ直接の手段は、ことばの呪能を高度に発揮することであった。「ことだまの幸(さき)はふ国」というのは、ひとりわが国の古代のみではない。中国にあっても、そのことだまへのおそれは、古代文字の構成の上にあらわれているのである。

 呪言としてのことばは、日常のことばづかいと、多少異なっている方が呪能の効果を高めると考えられた。お経をよみ、聖書をよむにしても、適当な抑揚やリズムが要求される。その最も古代的なものが歌であった。国語の「うた」は、あるいは「うつたふ」という語と、関係があるかも知れない。歌は神に訴え、哀告することばであった。

 古代人の感情は素朴で直截的であり、つくろうところがなかった。かれらは神に祈るとき、もとより神に哀訴するのであるが、かれらの感情は、祈る以上はその実現を要求してやまなかった。どうあっても、神に聴いて頂かねばならぬという、強訴に近いものであった。


 じっさいに哀告、哀訴、あるいは強訴を体験した者でなければ醸し出せない説得力を、ここに感じる。


 以前だったらここで終っていたのだが、最近はもう少し先の、あるいはややこしいことを考える。なぜ、自分はこうした部分に説得力を感じるのか。読み手として、この時何を為し得ているか。

 
 言葉がわかることすなわち喩がわかること、それはすなわち信仰を持っているということだ、という吉本さんの講演「喩としての聖書」でのお話がふと頭をよぎる。


 何ものかに触れ得ているかは自信がない。だが、どうやらここではないかという戸口には、立せてもらっている気がする。
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by todoroki-tetsu | 2012-10-29 06:47 | 批評系 | Comments(0)

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