2012年 10月 28日
中野重治「五勺の酒」について(その十一)
頽廃、とは何だろうか。そういえば最近あまり耳目に触れなくなったような気もするが。校長が触れる『アカハタ』の記事からの引用をお許し願いたい。そうしないと意味が通らなくなるからだ。
最初の括弧が『アカハタ』の記事である。おそらく原記事に僕が、そう、例えば学生時代にあたっていたとしたら、「うまいこと言うもんだな」とか思ったに違いない。「天孫だの高天原だのをやっつけるのが楽しい」からだ。溜飲を下げる楽しさ。
そうした楽しさに疲れ、病みかけ、離れ、例えば今では中島みゆきさんの「Nobody is Right」をしみじみと聴いたりすることもできる。しかし、そうした楽しさから今なお逃れきっているとは思えない。向き合い方が不足している、そう感じる。
おそらく僕は人を殺すことができる。見捨てることができる。裏切ることができる。自分を守るためにならいかなる卑怯もいとわず、そしてそれを正当化して生き延びていく姿がありありと想像できる。俺をそうさせたおまえが悪い、と。だからそんな風に僕を追い詰めるような世の中であってほしくない。内なるアイヒマンを発動させずに済むように。これが少なくともこの10年近く抱いてきた自分の基本原理であった。「社会」の問題を意識する時、こうした回路をなるべく経るように考えてきたつもりでもあった。
だが、今考え直してみると、明らかに迂回である。いささかの未練はありつつも、問いを正しく設定できていない、と感じる。なぜこの部分に惹かれたのだろう、と考えるとそうした自分の問いに行き着く。そういう思いで校長の独白を読んでみると、「皇族だろうが何だろうが、そもそも国に臣なるものがあってはならぬ」という言葉の重さが、以前よりは身にしみて感じられてくる。渡辺一夫を切なる思いで読み返した体験――例えば「ある教祖の話(a)――ジャン・カルヴァンの場合」――が、じわじわと効いてきているかもしれない。
「社会」を媒介させるのはよい。社会なしに生きていける人間はいないのだから。しかし、自分自身を括弧に入れるな。他者と己を同時に、いや直接に貫け。「皇族だろうが何だろうが、そもそも国に臣なるものがあってはならぬ」は、ユマニスムであると考えてよい。これほど「民主」的な考え方があろうか。しかしこの言葉が、「要するに彼らは、天孫だの高天原だのをやっつけるのが楽しいのだ。そして実地にはそれの現実の力を忘れることで満足しているのだ」と記した人と同じ人から出た言葉であることを忘れるな。自分から離れたところにあるユマニスムを校長は口にしたのではない。「それの現実の力」を骨の髄まで味わってしまった人間がそういうのだ。夢想家でもなく、皮肉な意味での現実家でもなく、徹底して現実を見つめる先にある何ものかを、校長はつかむ。ならば、その言葉を読む僕にも、何ものかをつかめるのではあるまいか。その時、頽廃から、「逆転」から、自らを救いだすことができるはずだ。
日々の修練。眼を鍛えること。
「九月一日のアサヒによれば日本の民主化にともない皇族の『臣籍降下』が問題となり、七月の皇族会議で天皇もはいって熱論したとつたえている。新皇室典範は十一月に開かれる臨時会議に出るが、その際にも問題になるだろうというのだ。ところがいんちきな新憲法にさえうたわれているごとく、すべての国民は法のもとに平等であって、社会的身分または門地により政治的、経済的、または社会的関係において差別されないのがあたりまえ。今さら『君』だの『臣』だの、はしごだんではあるまいに『降下』などとこんなバカげた話はない。こういう手数のかかる『天孫降臨種族』は日本人民からとりあげた金と米をおいて、高天原にかえってもらうほかはない。」
「日本の民主化にともない皇族の『臣籍降下』が問題となり」――そうなのだ。そういうこれは民主化なのだ。どこを押せばそんな音が出るか。どこに「臣」籍があるか。それをなぜ『アカハタ』が問題にせぬだろう。天孫降臨種族なら高天原へかえれ。どこに天孫降臨種族があるだろう。高天原行きの切符をくださいといってきたらどうするのだろう。そう僕は話した。すると反『アカハタ』派までがそろって喰ってかかってきたのだ。(僕らは生徒・教師いっしょ、『アカハタ』派・反『アカハタ』派いっしょの『アカハタ』読会をやっている。出るのに面倒くさいがやり方としてはおもしろいと思っている。)しかしすぐわかってきた。要するに彼らは、天孫だの高天原だのをやっつけるのが楽しいのだ。そして実地にはそれの現実の力を忘れることで満足しているのだ。筆者がまたそこへ導いているのだ。あんな馬鹿なことがどこにあるか。皇族の臣籍降下断じて許さずだ。どこに臣があるか。(略)仮りに天皇、皇族が心からあやまってきた場合、報復観念から苛酷に扱おうとするものが仮りに出ても、つまりもし天皇を臣としようとするようなものがあれば――国民の臣であれ――それとたたかうことこそ正しいのだ。皇族だろうが何だろうが、そもそも国に臣なるものがあってはならぬ。彼らを、一人前の国民にまで引きあげること、それが実行せねばならぬこの問題についての道徳樹立だろうではないか。天孫人種は高天原へ行ってしまえ。それは頽廃だ。天皇制廃止の逆転だと思うがどうだろうか。
最初の括弧が『アカハタ』の記事である。おそらく原記事に僕が、そう、例えば学生時代にあたっていたとしたら、「うまいこと言うもんだな」とか思ったに違いない。「天孫だの高天原だのをやっつけるのが楽しい」からだ。溜飲を下げる楽しさ。
そうした楽しさに疲れ、病みかけ、離れ、例えば今では中島みゆきさんの「Nobody is Right」をしみじみと聴いたりすることもできる。しかし、そうした楽しさから今なお逃れきっているとは思えない。向き合い方が不足している、そう感じる。
おそらく僕は人を殺すことができる。見捨てることができる。裏切ることができる。自分を守るためにならいかなる卑怯もいとわず、そしてそれを正当化して生き延びていく姿がありありと想像できる。俺をそうさせたおまえが悪い、と。だからそんな風に僕を追い詰めるような世の中であってほしくない。内なるアイヒマンを発動させずに済むように。これが少なくともこの10年近く抱いてきた自分の基本原理であった。「社会」の問題を意識する時、こうした回路をなるべく経るように考えてきたつもりでもあった。
だが、今考え直してみると、明らかに迂回である。いささかの未練はありつつも、問いを正しく設定できていない、と感じる。なぜこの部分に惹かれたのだろう、と考えるとそうした自分の問いに行き着く。そういう思いで校長の独白を読んでみると、「皇族だろうが何だろうが、そもそも国に臣なるものがあってはならぬ」という言葉の重さが、以前よりは身にしみて感じられてくる。渡辺一夫を切なる思いで読み返した体験――例えば「ある教祖の話(a)――ジャン・カルヴァンの場合」――が、じわじわと効いてきているかもしれない。
「社会」を媒介させるのはよい。社会なしに生きていける人間はいないのだから。しかし、自分自身を括弧に入れるな。他者と己を同時に、いや直接に貫け。「皇族だろうが何だろうが、そもそも国に臣なるものがあってはならぬ」は、ユマニスムであると考えてよい。これほど「民主」的な考え方があろうか。しかしこの言葉が、「要するに彼らは、天孫だの高天原だのをやっつけるのが楽しいのだ。そして実地にはそれの現実の力を忘れることで満足しているのだ」と記した人と同じ人から出た言葉であることを忘れるな。自分から離れたところにあるユマニスムを校長は口にしたのではない。「それの現実の力」を骨の髄まで味わってしまった人間がそういうのだ。夢想家でもなく、皮肉な意味での現実家でもなく、徹底して現実を見つめる先にある何ものかを、校長はつかむ。ならば、その言葉を読む僕にも、何ものかをつかめるのではあるまいか。その時、頽廃から、「逆転」から、自らを救いだすことができるはずだ。
日々の修練。眼を鍛えること。
by todoroki-tetsu | 2012-10-28 08:54 | 批評系