若松英輔さんの講演

 昨日は久々に若松英輔さんのお話を拝聴した。僕が若松さんの書かれたものやお話に強い関心を抱いているのは、自分自身のもんだいを重ねあわせつつ、それを前向きに転化したいという個人的な理由が根底にある。単に面白い、何かあるという手ごたえを感じるというからでもある。それはそれとしてどこかで記すつもりだけれども、印象的なお話のいくつかのうち、ひとつだけ。

 
 若松さんは井筒俊彦だったり小林秀雄だったり柳宗悦であったりといった方々の言葉を資料として配布し、それを声に出して読みながら聞き手とともに味わいつつ、話を進めていく、そういうスタイルをとる。そこで昨日おっしゃていたのは、「文学者や哲学者が引用するとき、その引用した部分というのは自分が沈黙を迫られた部分である。そこに付け加えることは何もない、そう感じたところを引用する。皆さんもそのように読んでほしい」、と。


 小林秀雄さんも似たようなことを言っていたような気もするが、若松さんが小林さんの口真似をしているとは思わないし、思えない。これは小林秀雄をつかんだ確信であり、その確信は若松さんのみならず、例えば山城むつみさんにも、大澤信亮さんにも、杉田俊介さんにも、あるだろう。そのことについては少し違った観点から以前触れてみたことがある。

 複数の人をつかんだ確信、それを何と名づけるかはその人次第だ。真理でも実在でもなんでもいい。僕自身はそれをひとまずは「真理」とよんでおこうと思うが、あまり名称にはこだわらない。

 
 ここで昨日の講演の内容にさらに立ちかえると、「誰かと誰かが言っていることは同じだ、というのは二次的なこと。そうした人々が何を見たのか、そこに触れることが大切なのだ」ということになる。これは若松さんが繰り返し強調されることだ。今例えば名前を挙げたような方々の文章に、通ずるものを感じたとして、それを読み手である自分が感じるというのはどういうことなのか。そのとき自分は何かに触れ得ているのではないか、という思い。傲慢ではなく、素直に感じ取ること。

 
 まずその体験を、自分自身に掘り下げていくこと。自分が体験したようになぜ他者は体験しないのか、という問う前に。ここが僕にとっての個人的で、しかしたいせつな問いである。


 中野重治さんの「五勺の酒」を引用しながら読んでいるが、自分が沈黙を強いられたところを忠実に引用しているか、何か「言いたいこと」先にありきでテキストを「利用」してはいないか。ついでながら、若松さんは「○○について」語ることと「○○を」語ることの違いを強調される。大事なのは後者だ、と。


 してみると、「『五勺の酒』について」と題してしまった一連のエントリは、なるほど周縁をうろうろしている、ただのおしゃべりかもしれない。小林さんの「他人をダシにして自分を語る」という言葉を、手前に都合いいように解釈しているだけではないのか。


 なぜだかここ最近、同時代の文学者がしばしば用い、かつ自分にとっては長らく実感がつかみきれていなかった言葉が、じわじわと沁み込んでくるように感じられてくる。孫引きで申し訳ない。


 君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない。
                                  カント『道徳形而上学原論』


 しかし、とにかくもう少しは続けてみよう。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-10-26 08:03 | 批評系 | Comments(0)

<< 福島原発告訴団 中野重治「五勺の酒」について(... >>