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中野重治「五勺の酒」について(その十)

 掌編「五勺の酒」の中には、判らないところがいくつかある(それ以外が判るという意味では無論ない)。その中でももっとも判らないのは、次のところだ。満州皇帝の東京裁判出廷に触れたあとに続く描写。


 南京陥落のとき、僕は県代表で東京へ提灯振りに行ったものの一人だ。まだ東京はあった。提灯に火を入れて街を練って、最後に宮城前へ行って声をあげてそれを振った。すると天皇が、濠をへだてて松の木のむこうでそれに答えて振った。あのとき僕らは、これで戦争がすむ、これですんでもらわねばならぬと、希望を入れてよろこびで振ったのだ。天皇も同じだったろう。虐殺と暴行とが南京で進んでいた。しかし僕らは、僕らも天皇もそれは知らなかったのだ。記憶をくりかえせば、僕らは、僕らも天皇も、これですむ、すんでもらわねばならぬという希望と願望とで、そしてそれをよろこびとしてあかい提灯を振ったのだ。もし天皇が不幸な旧皇帝を訪問して、日本の現在許されるかは別として、しかし許されるだろう、ふたりの不幸と不明とを抱き合って悲しんでわびたのであったら。事実として、天皇その人の天皇制が、提灯を振ったことでの愚かさを、たとえば玉木にわびるチャンスさえぼくから奪って行ったのだ。もし彼がそれをしたのだったら、僕はまっさきに、少なくともそのことを彼に許し、そのことで、僕自身許される慰めをつかむ機会を決してのがさなかったろう。


 1947年1月に発表された作品だから、実質1946年に記されたと考えてよかろう。1945年8月15日から2年と経ぬ時に、このような言葉が記される。いかなる立場であれ、今において天皇(制)や戦争責任を云々するのとはまったく違った言葉の重み。そこにクラクラしてしまうのだが、判らなさはそうしたことに起因するのではない。


 「南京陥落」を、「これですむ」という「希望と願望」とで提灯を振りながら祝った。校長も天皇も。天皇が実際どう思っていたかは知らない。けれどそのように思っていたとしよう。そこまでは想像出来る。「勝った」というよりも、「ケリがついた」「これで終わった」という感覚。


 しかし、実際にはそうではなかった。その認識は間違っていた(では何が正しいのか、という意味で間違っていたというのではない。見当が違っていた、というほどの意味で用いよう)。たとえ知らなかったとしても、それは間違いではあった。

 
 ならば、天皇と旧皇帝がお互いの間違いを悲しんでわびたのなら、せめて提灯を振った愚かさを、「これですむ」と思ったという誤りを認めたならばどうなるか。次の段落には、「旧皇帝を猿ひきに見はなされた猿として蹴とばしておいて、それで道義の頽廃をうんぬんするとしたらどこに頽廃すべき道義があるだろう」とある。こことつなげれば意味は判る。天皇(制)の道義たるや如何、という問題になるからだ。


 僕が判らないのは、天皇のわびを切実に願うその気持ちが、自分自身が義弟の戦死をわびることと分かちがたく結びつく、そのことだ。天皇は天皇、自分は自分、とは決してなりはしない。天皇が最高権力者である以上、その存在がわびなければ日本国民ぜんたいがわびたことにはならないという政治的感覚からか。それとも天皇もまた日本国民である以上、ともに提灯を振ったものとして最低限わびるべきではないのかという共犯者的(あるいは同胞的)感覚か。


 僕などからすれば、後知恵なのはじゅうぶん判っちゃいるが、「それはそれ、これはこれ」とでもいう如く、天皇と自分の問題とを分けてしまえばいいじゃないか、と思う。当時は批判にせよ肯定にせよ、もっと天皇(制)は身近にあったのだろう、とは想像出来る。が、その程度の想像でよいのかどうか。


 あるいはここに読みとるべきは、全的に自分が何ものかを引き受ける覚悟であろうか。その覚悟の中に天皇(制)も全部含まれるのだ、と。そうして読もうとする方がまだしもしっくりは来る。けれど、なかなかに無理のある読み方のような気もする。

 
 やっぱり、よく判らない。判らないことを考えていてもしょうがないので、判らないということが何を意味するのだろうと考えてみることに決めて、先へと読み進めて行く。




 

by todoroki-tetsu | 2012-10-23 20:44 | 批評系

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