中野重治「五勺の酒」について(その九)

 校長の天皇に対する思い、いや生徒や回りの人間たちの天皇へのもの言いに対する思いは、さらに続いていく。今度の題材はニュース映画だ。

 
 天皇行幸を報じたニュース映画、それを見て「製作が反動的」だなんだと議論する生徒。論争に参加した時点では彼はまだニュース映画を見ていなかった(こうした描写も実に活き活きとしていていい)。そしてともかくそれを見た。校長は記す、「彼らが誤っている。彼らは誤っていた。しかしそれ以上僕がすっかり憂鬱になった」。なぜか。


 それは千葉県行幸で学校だの農業会だのへ行く写真だった。そして、あいもかわらぬ口うつし問答だった。(略)そこで甲高い早くちで「家は焼けなかったの」、「教科書はあるの」、と返事と無関係でつぎつぎに始めて行った。きかれた女学生は、それも一年生か二年生で、ハンケチで目をおさえたまま返事できるどころではない。そこでついている教師が――また具合よく必ずいるのだ。――肘でつついて何か耳打ちをするが、肝腎の天皇はそのときは反対側で「家は焼けなかったの」、「教科書はあるの」とやっているのだからトンチンカンな場面になる。そうして、帽子をかぶったと思えば取り、かぶったと思えば取り、しかしどうすることができよう、移動する天皇は一歩ごとに挨拶すべき相手を見だすのだ。(略)歯がゆさ、保護したいという気持ちが僕をとらえた。もういい、もういい。手をふって止めさして、僕は人目から隠してしまいたかった。暗いベンチの上で、僕の尻がひとりでに浮きあがりそうだった。そのときだ。二階左側席から男の声で大笑いがおこった。見あげてみたが顔も姿も見えぬ。人がいることはわかるがまっくらい中での笑いだ。二十前後から三十までの男の声で、十二、三人から二十人ぐらいの人間がいてそれがうわははと笑っている。言いようなく僕は憂鬱になった。なるほど天皇の仕草はおかしい。笑止千万だ。だから笑うのはいい。しかしおかしそうに笑え。快活の影もささぬ、げらげらッとダルな笑い。微塵よろこびのない、いっそう微塵自嘲のない笑い。僕はほんとうに情けなかった。日本人の駄目さが絶望的に自分で感じられた。まったく張りということのない汚さ。道徳的インポテンツ。へどを吐きそうになって僕は小屋を出て帰った。


 「あいもかわらぬ口うつし問答」をやる天皇に対して校長は好意的だ。それはいい。そしておそらくは善意からであろうと思われるトンチンカンな場面、それに対して人目から隠したいという思い。これらは絵ハガキを覚えず隠してしまいたくなる精神と通ずるだろう。


 ここであらたに登場する大笑いをする男たち。彼らのおかげで校長のまなざしの深さにさらに触れることができる。「なるほど天皇の仕草はおかしい。笑止千万だ。だから笑うのはいい。しかしおかしそうに笑え」。「笑うな」ではないことに注意したい。笑うな、と本当は言いたかったのかもしれない。けれどそうは少なくとも記さない。そこがたいせつに思える。

 
 おかしそうでない笑いとは何か。中野は言葉をついでこう説明してくれる。「微塵よろこびのない、いっそう微塵自嘲のない笑い」と。「自嘲のない笑い」! このことで僕には思い起こされる風景がいくつかある。

 
 学生時代、非常に大きな問題が瀬戸際にあった。結局学内問題と化してしまったのが何とも力不足であったと思うのだが、それはひとまず措こう。その問題に関する職員の皆さんの投票があって――当たり前すぎるくらい当たり前だが、「三者構成自治」とはそういうことだ――、僕たち学生はその時、投票所に向かう皆さんに対して学生自治会としての主張をビラにして配っていた。「ぜひ読んで下さい」「よろしくお願いします」……表現もやり方も稚拙だったろう。険しい顔をしている職員もいた。受け取ってくれる人もそうでない人もいた。そんなことは慣れっこだ。別にかまいやしない。一番キツかったのは、僕らの前を通りすぎた直後「よろしくお願いしますって言われてもねぇ、ハハハ」と笑いあった二人連れだった。支援に入った他大学で「学外者は出ていけ」とあざけられたこともあったが、こっちの方がキツかった。


 最近では、反原発に関する集まりでしばしば出くわす、原発推進を主張する人々の言動。それはそういう主張なのだろうからそれはよい。絶叫している人もいて、そこにも切実はあるのだろうと思う。お互いに意見をまっとうにたたかわせることが出来ればそれでよいと思うし、本屋としてはまっとうな論争があればまっとうに本が売れる、と常々考えている。さて、僕がこたえるのは、ずいぶんと間延びした感じのコールであったり、疲れているのか何なのか、すごくダラっとした感じでされる「原発賛成」とされるコール、またつばぜり合いになった時に見られる何ともいえぬ「半笑い」とでもいうべき表情。それらが実にこたえる。

 
 すぐさま言っておかねばならないが、だから原発推進をいう人は……などと言いたいわけでは断じてない。その逆もまた然り。主義主張のせめぎ合いにおいて、ある局面では、こうしたことはいかなる立場であれ起こり得ることなのだ。僕自身もそうしたことは何度もやって来た。本題から目を逸らさせるために、あげつらうために、手を出さない代わりに、当局に対して、意見を異にする者に対して、自分の言うことを聞かない者に対して、あるいはいけすかない上司に、あるいは目ざわりな部下に……。


 そうした笑いを「微塵よろこびのない」というだけでなく、「いっそう微塵自嘲のない笑い」と中野は表現してくれた。「よろこびのない」笑い、それは笑いを単なる道具として、他人を貶める道具として使うということだ。のみならず、それは「自嘲のない笑い」である、と。自嘲という厳しい言葉を用いて表現されていることを、十全に理解している自信はない。けれど少なくとも、自分自身に折り返す何ものかを感じないような笑い(あるいは笑い方)は健全ではない、という程の意味には理解出来るし、また納得できる。


 そんな時は、笑わなければよいのだ。口を開く前にまず、自問すべきなのだ。
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by todoroki-tetsu | 2012-10-22 12:13 | 批評系 | Comments(0)

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