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中野重治「五勺の酒」について(その三)

 グライダー教練をめぐる葛藤や、おそらく戦死したであろう夫を待つ妹(三人の子供がいる)のこと、それらを綴りながら、「未練から解放されたい」「決心をする決心をした」と校長は書く。ここでようやく彼が、普段はたしなむことのない酒を飲んでいることがあかされる。


 今夜は憲法特配の残りを五勺飲んだ。そして酔った。もともと僕は酒好きではなかった。学生時代君らと飲んでも格別うまいとも思わず、酒が飲みたいともさほど思わなかった。いまは飲みたい。じつに酒が飲みたい。(略)酒を飲むとも飲まれるなというのの反対、飲まれたいという欲望だ。教師生活、戦争生活、最初の妻の死、再婚、大きくなる子供たち、玉木の死と、よし子の、出もどりでなく、何というか、肩も腰も石をみたようになり、そして一ぱいの酒が飲みたい。訴えようのない、年齢からもくる全く日常的散文的いぶせさ、とかく一ぱい飲んで、とかく寝てしまいたい。


 哀しさ、と言っていいのだろう。一合の半分のわずかな酒。たぶんあおるようにではなく、ちびちびと飲んだであろう。その後姿が目に浮かぶようだ。哀しさはもとから自覚されていたのか、それともその自覚を引き起こすものがあったからなのか。

 
 僕はこのごろ子供ころの在郷歌(ざいごうた)を思い出した。童謡だ。「雀すずめ、なしてそこにとまてだ。腹コすぎで(腹がすいてだ)とまてだ。腹コすぎだら田つくれ。田つくればよごれる。よごれだら洗え。洗えば流れる。流れだら葦の葉にとまれ。とまれば手きれる。手きれだら麦の粉をふりかげれ。振りかげれば蠅とまる。蠅とまったらあうげ。あうげばさびよ(寒いよだ)。さびがらあだれ。あだればあづいよ(火にあたれば熱いだ)。あづがらひっこめ。ひっこめばとぜね(とぜね、さびしいだ)。……ひっこめばとぜね。とぜねがら(さびしけれや)酒飲め。酒飲めば酔う。酔ったら寝れ。寝れば鼠にひかれる。起きればお鷹にさらわれる。」だ。だれがこの文句をつくっただろう。とぜねがら酒飲め。さびしければ酒飲め。酔ったら寝れ。つまりこれは、日本の「家」を歌ったものだろうか。


 今自分の抱えるさびしさ、いや、そもそもさびしさとすら名付けられない何ものかを感じる。そんな時にふと、口をついて出たのが、子供のころに聞き歌ったであろうこの在郷歌であった。それがいたく自分の心境とあう。そういうことは、僕たちの普段の仕事や暮らしのなかでもしばしば起きる。そういうことは確かにあるのだ、と思わせる。限りない共感。言葉を媒介に書き手と読み手が重なり合う瞬間がここにはある。

 
 さて、「ひっこめばとぜね(とぜね、さびしいだ)。……ひっこめばとぜね。」とある。この「……」は何だろう。節回し上必要なブランクなのか、何かを略したのか。本職の研究者には調べがついているのかもしれない。いずれにせよ僕には、これは校長にとってどうしても繰り返さなければならなかったフレーズだと思われる。「引っ込めば、さびしい」。単なるあそび歌の場面展開のためのフレーズが、自分の境涯におどろくほど合致する。未練と重ねて校長は書いてきたのだし、「決心をする決心」とも記した。何かを振り切ろうとしているように思える彼が、「ひっこめばとぜね」と一瞬の沈黙の後に繰り返し、少し酒に酔った顔で書きとめる、その姿。この繰り返しがあってこそ、この後何度か重ねられる「とぜねがら酒飲め」という言葉がより活き活きと、切実に迫ってくるように思える。


 この童謡を、校長は「家」と結びつけた。それはそのまま、自分の抱えているもんだいが「家」に起因するものではないかと疑っていることを意味する。先行するテキストを頼りに自分を語る術を得ること。批評。この批評を僕たちもまた、糧にすることができる。中野重治にとっての「家」は「村の家」で描かれるものと切り離すことは出来ないだろうし、この後に記される天皇制に対する考え方とも密接だ。好むと好まざるとにかかわらず、誰もが関与せざるを得ない「家」。ここから出発しないでどうするのだ、という思い。簡単に否定しようたってそうはいかんのだ、という圧倒的で重苦しい確信。戦後、若い加藤周一さんらを前にして、「たまにはこういうものを聞くのもよいのではないですか。思い出のよすがに」と軍歌のレコードをかけた渡辺一夫の姿が、重なってくる。中野重治に見えていたもの、渡辺一夫に見えていたもの。いや、彼らだからこそ見えたという眼そのものを、僕は得たいと思う。

 
 しかし、本文に戻ろう。とにかく味わいたい。いちいちの描写が素晴らしい。こういうのを「抒情」というのだろうか。末の子を溺愛できること、それを妻と語り合えることの喜び。しかし、子供の行く末を考えるとそう浮かれててもいられそうにない様子。繰り返される「とぜねがら酒飲め」。


 僕はこのごろ、日本の女という女がつけている、足の甲の、くるぶしのすぐ下の坐りだこ、あのあざのような皮膚の部分が眼をはなれぬ。年ごろになるまであんなものはない。嫁入り支度、そこでそろそろ出来、結婚、母親、それで完成する。最初の妻にもあった。いまの妻にもある。娘たちにはまだない。僕は娘たちにだけはあんなものを出かせたくない。それだけ妻の足の坐りだこを撫でてやりたいよ。すべて日本の女の坐りだこを撫でてやりたいよ。日本の女の取りあつめたあわれさ、たこ。そして女という女の足に坐りだこをつくるものの男への反射が酒を求めさせる。ただ、末の子のことで語り合ったため僕らは新しい境地へ来られたようだ。これは大したことだった。これ以上生まれるはずもないが、仮りに今後男が生まれるとしても僕はらくに愛せそうに思う。とぜねがら酒飲め。酔ったら寝れ。その年にきて、僕らは、坐りだこの出来た妻を新しく愛せねばならないのだ。


 幾重にも味わうことの出来るこの一連の文章。素朴な美しさとでもいおうか。この美しさをなりたたせるのは何よりもまず、坐りだこを見つめる眼である。フェミニズムの文脈からどのようなことが言えるのか、僕は知らない。男の立場の自省が足りないと言われればその通りかもしれないと思う。これで十分かどうかは判らない。しかし、坐りだこをただそれとして眺めるような眼差しではないことは明らかだ。女性の日々の苦しさや、翻って自分自身にもかえってくるような、そういうものとして見る。見えるからこその苦しさもまた感じさせる。


 これは妻と夫の、時として子供も交えての関係の話だが、他者とのかかわりということで言えば、似たようなことはいくらもある。僕にとって切実なのは、職場での、特に契約スタッフとの関係である。末の子について語り合ったことで「新しい境地」に来たと感じられたこの校長の経験は、坐りだこを見つめるまなざしと共に、僕にとっての手がかりになりそうだ。

by todoroki-tetsu | 2012-10-08 09:26 | 批評系

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