中野重治「五勺の酒」について(その二)

 校長となった教師は、参考となり得るであろう様々な書物を読んだようだ。なかでも心に残ったのは「コロレンコ」あるいは「ゲルツェン」だったかの作品の「某という家庭教師」であったという。教え子に持てるすべてを与え、与えきってのちに自らは去る、ドイツ人青年教師。「生徒たちによかった僕の評判には、この逃亡ドイツ青年の影響が実にあったろうと今思う」というのだから、影響たるや相当なものだ。

 
 生徒たちに評判は悪くない、と言える教師について、例えば自らが、或いは身内に教師を持つ人であれば、何か違った感覚を持つかもしれない。だが、ここで僕はひとまず、ある程度のキャリアを積んできた人間が相応に、多少の虚飾はあるにせよ持つであろう自負というほどに考えておきたい。


 さて、校長は自分のもつ全てを教え子に与え得たか。否。それを阻んだのは間違いなく戦争である。

  
 すべてを与えて逃亡する、その逆が僕に道として与えられた。僕はただ、征伐・出征の征を「ゆく」とよむのは間違いだといって生徒たちに教えられただけだ。(略)また応召という言葉がはやって「応召される」という受け身の形が生徒の作文に出てきたとき、それは間違いで応召「する」でなければならぬ、受け身なら「召集」されるだといって主張できただけだ。


 なんということを書けるのだろう。このほんのささいな、圧倒的に迫ってくる時局とでもいうのか、そういうものに比してあまりに些細な言葉遣いへのこだわり。このささいな「抵抗」。しかし、ほんとうにその人自身の生活や仕事に根付いた抵抗があり得るとするならば、こうしたことになるのではあるまいか。組織や立場、もっというなら関係性に、ぼくたちはからめとられる。けれど同時に、その関係性を別の次元に解き放ちうることも、「うっちゃる」(浅尾大輔)こともできるはずなのだ。

 
 しかし、このささやかな抵抗の行く末はどうであったか。


 そしてそれさえ、僕の説を受けいれていた若い国語教師が召集されて、その送別会のかえり、思いつめたような「校長先生……」という呼びかけで呼びかけられたとき完全にへたばってしまった。彼はそのときも僕の説を認めていた。ただ彼は、「征」を「ゆく」と、このさい、彼のためによませてくれといった。灯火管制でまっくらな垣根みちをたどりながら、「校長先生……」というよびかけにショックを感じなくなっている僕を僕は認めた。「それだけは勘弁してくれ。」というかわりに僕は彼の乞いを入れた。


 抵抗の挫折は、例えば軍人教官によってもたらされたのではなかった。自分の説を認めてくれていた若い教師=部下によって、もたらされたのだ。


 またしても、こういうことなんだよな、と思う。校長も若い国語教師も、どちらも精一杯を生きている。それだからこそつらいのだ。どちらがどのようにふるまってもつらいのだ。この重さを何と言おう。


 僕はこの話が誰かにしたかった。だれかに聞いてもらって、その誰かから、むしろ何ものかから、諒解が得たかった。


 だが、実行はしなかった。この手紙がはじめての吐露となる。口にすることが出来なかったという、その長く暗澹たる日々を思って僕は愕然とする。


 征を「ゆく」とよむのは間違いだという校長、それに納得しつつもいざ召集された時には「ゆく」とよませてくれと迫った若い教師、そしてそれを認め、長く他人に語ることが出来なかった校長。

 
 誰も何も悪くない。だけれど、誰もが傷ついてしまう。その重さ、哀しさを描く文学の力。ほとんど勝手かもしれない思い入れをこめながら、読み進める。



 
 
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by todoroki-tetsu | 2012-10-04 22:50 | 批評系 | Comments(0)

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