中野重治「五勺の酒」について

 数年前、なぜだか急に思い立って中野重治の書いたものを割合に集中して読んだことがある。たぶん、吉本さんの「転向論」あたりをきっかけにしたのだと思う。ピンとくるものもあったし、そうでないものもある。


 そのまましばらくほっぽり出していたのだが、少し前に大江さんが「春さきの風」を引いたのを機に、パラパラと読み返してみて、やっぱりすごいなと思ったのが「五勺の酒」であった。

 
 うまくは言えないんだが、どうにも今こうした作品が必要なように思われてならない。なぜそう思うのかすら判らないのだけれどもとにかくそうなのだ。それを何とか考えたい、と無謀にも試みる。文庫本で40頁少々の短編だが、長短はもんだいではない。


 老境に入った、といっても50代になるかならんかというほどの校長であるところの老教師が、旧い友人にあてた手紙という体裁をとる。
 

 未練、という言葉が最初からずいぶんと出てくる。が、教師は「返せぬ過去への未練でない」という。
 

 将来への、未来への未練だ。行住坐臥、霧のようにのぼってくる未練にむせむせ、未練を感じだした年齢から、これからの年齢を円筒のようにのぞきこんで感じる精神のよろめきだ。


 とはいえ、若かりし頃の思い出と切り離されて未練があるわけではない。こう続く。

 
 君は知るまいが、僕はむかし新人会へはいろうとしたことがあった。しかしはいらなかった。警察署長というおやじの職業が取次ぎの学生を逡巡させたのだ。彼は拒絶するかわりに僕をさけた。あからさまではなかったが僕はさびしく身をひいた。それから僕は教師になり、生徒にいい評判をとり、校長になり、いまや追放か、でないかというところへきた。新人会幹事はまちがっていただろう。しかし僕はなぜ、さびしい思いなぞを抱いて教師になっただろう。さびしい思い、馬鹿め……僕は地だんだを踏んであと十五年かそこらの残りを考える。


 こうした描写に、僕はとてつもなく惹かれる。なぜか。

 
 何かをやろうとする。ありていに「運動」といってしまおうか。思いをもって運動に近づこうとする。近づく時には葛藤がある。不安もある。そんな思いをしながら近づいていったものに、何らかの理由ではねのけられる。この教師の場合には、あからさまではないにせよさけられたことを以て拒絶と解釈した。負い目があったのか、しょうがないと思ったのか。親の職業はたしかにそうかもしれんと、ひとまずの納得をさせられるものであっただろう。


 けれど、教師の中には何かがあった。拒絶されてもゆらぐことのなかった何かが。そうでなくては「いまや追放か、でないか」なんて境遇に陥る筈はない。だから「新人会幹事はまちがっていた」と言える。この「だろう」はつけ足しに過ぎぬ。実のところは断定だ。全身から満ち溢れる自信がある(それが無謬性の過信からではなく、自らが出来なかったことに対する痛切な自覚から来るものであることはのちに見る)。


 それでいてなお、「さびしい思い」を抱く。そのさびしさはいったい何なのだ。そう旧友に語る。この友に対してしか語り得ぬものであるだろう。


 ああ、こういうことなのだな、と思う。何がと言われてもうまくはこたえられない。運動に入り込んでしまってもそこでは様々な葛藤があるわけなのだが、そのいわば手前の段階では、こうした葛藤がつねにある。運動が大きくなればなるほど、切実さを増せば増すほど、こうした葛藤は増えていくに違いない。やすやすと飛び越えられる場合もあれば(僕の場合はそうであった)、なかなかに飛び込めない場合もある。


 こうしたところに常に立ち返る必要がありはしないか、と思うのだ。ある程度出来あがった考え方やスタイルというのももちろんたいせつなことだが、それは不断の葛藤なくしては硬直化するほかはない。そうでないありようを模索するのなら、さびしい思いについて想像することは無駄ではない。

 
 以上のような「感想」を、僕は誰かに叩きつける気はない。さびしい思いをしたこともあったが、むしろさびしい思いをさせたであろうことの記憶が僕に襲い掛かってくる。もはや取り返しはつかない。償うことも出来ぬだろう。過去に襲われるどころか、実は今も再生産に加担してはいないかというおそれ。


 このおそれが、どうやら僕を「五勺の酒」に向かわせる要因であるらしい。
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by todoroki-tetsu | 2012-10-03 20:39 | 批評系 | Comments(0)

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