台風の近づく夜

 雨音が強くなっては落ち着き、落ち着いたかと思えばまた強くなる。妙な夜だ。


 早々に店を引き上げた僕は、だるい足をとぼとぼ引きずりながら携帯をのぞく。沖縄でどうやら大きなことが起きているらしい。たいへんなことだと思う。「何かしなければならないのではないか」と思う。「何かしたい」のではないようだが、その違いはよく判らない。そう思った次の瞬間には、はやく風呂に入りたいと思っている。


 そんなもんだと開き直るでもなく、かといって妙に真面目くさるのでもなく、自分の生活と仕事とが、例えば沖縄で今奮闘しておられる方々を、少なくとも邪魔するようなものでないようにしたい。何かをやること、参加することはもちろんたいせつで、そのたいせつさはぐうの音も出ないほど正しくてたいせつなことだけれど。

 
 連帯なんてそう気軽に言えるもんじゃない。少なくとも今の僕にとっては。しかし、そう言い得る人がいることを僕は否定しない。問題も課題も無数にあって、それぞれがどれもたいせつで切実で、そのすべてに連帯出来ればそんな素敵なことはない。

 
 何かに連帯し、何かに連帯しない。だとしたら、その境目はどこにあるのだろう。知らないか知っているかの違いか。無知は罪だ。そうかもしれない。けれど、ほんとうにその人とそのライフ・ヒストリーを、心の底から理解することなんてできるのだろうか。

 
 出来るかどうかは判らない。しかし、おそらくもしそれが可能になるとしたならば、自分自身の内部に深く潜り込んで行くほかはないのではないか。その内部から、自分と地域や社会との関係を、上原專祿の言葉を借りるなら、「地域(職場)―日本―世界」の関係を、体得する経験なくして、他者との連帯はあり得ないのではあるまいか。


 沖縄の問題を、僕はまったくとは言わないが、数冊の本を読んだ程度の記憶しかない。しかし、それらの本よりも、わずかな海外生活の中で体感した「外国の基地をおくのはどう考えてもおかしい」という感覚のほうが、たしかな手がかりになるだろう。

 
 外国の基地に反対する人間を排除するのは、何ものであるか。


 その何ものかが守っているのは何か。


 その何ものかの影を、僕は例えば国会前で、東電前で、経産省前で見たのではなかったか。

 
 「口をついて出てくる言葉は、『私たちをばかにするな』『私たちの命を奪うな』です」。2011年9月に武藤類子さんはそう言った(『福島からあなたへ』)。

 
 私たちをばかにする何ものか。命を奪う何ものか。

 
 それが具体的な個人なのか制度なのか社会なのか国家なのか、僕にははっきりとしたことは言えない。仮に国家だとして、それがいくら強大な官僚機構であったとしても、少なくとも政治家は投票でしか選べないはずだ。仮にも20年近く有権者である以上、国家のせいだというのはよいとして、それだけで済まされるものではあるまい。

 
 マルチイシューかシングルイシューかという問いのたて方そのものが、僕にとってはどうでもいいことだ。あくまで僕にとっては、であって、それがたいせつだと思う人を否定したり批判するつもりはない。ただ、自分が問題をつかみ/つかまれていれば、それで十分だ。

 
 僕自身がその内部に入り込み、特定の個人なり制度なり社会なり国家なりとの関係をひとつひとつていねいに検証する作業を省いてはならない。もちろん、それは何かをやりながら出来ることでもあるだろう。何もしない理由にするつもりもない。

 
 ゆるやかに、でもしっかりと、お互いをつなぎ合わせるものを握りしめたいと思うのだ。 
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by todoroki-tetsu | 2012-09-30 20:14 | 運動系 | Comments(0)

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