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中下大樹さんの言葉(『葬式プランナーまどかのお弔いファイル』より)

 『葬式プランナーまどかのお弔いファイル』には、中下大樹さんのコメントが収録されている。

 
 中下さんのことはよく存じ上げないが、TWITTERなどでは間接的にご意見をお見かけしたこともあり、すこし気になる方のひとりである。


 中下さんは「孤独死」を「孤立死」と呼ぶべきだ、と提唱されたのち、こう続ける。


 この問題(=「孤立死」。等々力注)は「無縁社会」が招いた結果と騒がれましたが、これは必然です。我々が望んだことなのです。異常な事態でもなんでもありません。当然の帰結として受け止め、そこから始めなければなりません。


 この言葉はそのまま、「新自由主義」が力を増す過程と共に生きてきた自分に突き刺さる。


 新自由主義に賛意を表したことは、ほとんど一度たりともない。あんな薄っぺらい人間観に惑わされてなるもんか、と思っていたし、今もそれは基本は変わりはしない。けれど、じゃあお前はどれほどの人間観を持ち合わせているかというと、ずいぶんと心もとないものだと気づいたのは比較的最近のことである。

 
 シャッター通りの商店街、ベストセラーがやってくるのに少なくとも二カ月は要した本屋、県内でも有数のチャリ盗難率の高い最寄り駅、やたら虚勢を張るヤンキー、顔の見知った連中にしか出くわさないような町内……そんなものから逃げ出したいと思った人間は、地縁だかコミュニティだかを礼賛することは出来ない。必要なものだと分かっていても、なお。そうしてよしだたくろうの「どうしてこんなに悲しいんだろう」を口ずさむのだ。

 
 いささか錯乱してしまったが、正気だ。批判している何かに、実のところはどこか惹かれてはいなかったか。それをどうとらえればよいのだろうか、ふと思い出したりして考え込んだりもしていたのだった。

 
 「当然の帰結として受け止め、そこから始めなければなりません」。言われてみれば当たり前だ。当たり前だが、こんなたいせつな言葉はない。


 死、あるいは弔うということにかかわってこうした言葉に出会えたこと。僕にとっては、『葬式プランナーまどかのお弔いファイル』本篇ともかかわって、複合的な暗示のように思えている。



 
 

by todoroki-tetsu | 2012-09-17 15:08 | 批評系

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