カネの話

 『葬式プランナーまどかのお弔いファイル』について記した折に少し触れておいた、書店員としての僕自身にかかわるカネの話を少ししておこうと思う。

 
 とはいえ、別段給料がどうだとか労働条件がどうだとか、それに比べてあいつは云々などといったそういう話ではない。僕が、会社員書店員としてもらう給料以外に、発生したことのある、あるいは発生しなかった、カネの話である。ごくわずかなことでもあるから、時系列は前後する。記憶があいまいなところもある。


 ある本の話。営業さんと縁があって、事前にゲラを拝読する機会があった。面白いと思ったし、実際によいセールスだったのだが、新刊が出てから少しして、「新聞広告を出すから、コメントを一筆書いてくれないか」とのお申し出を営業さんから頂いた。面白い本だと思ったし、その営業さんとの関係も悪いものではないので、引き受けた。そう長いコメントではないが、たしか二種類くらい渡した気がする。そのどちらかが無事(?)採用となった。

 
 その際、謝礼の話をしたかどうかは全く記憶にない。ないのだが、その営業さんは「気持ちです」と、図書カードをお持ちくださった。しかもいつの間にやら僕の勤めている店で購入されたようなのだ。ここまでされて無碍に断るわけにもいかんな、とありがたく頂戴した。中味はたしか¥3,000分だったと思う。結構な額だな、と思った。何かのお返しをした記憶はない。せいぜい礼状一本くらいを差し上げたかどうかだろう。たぶん5年くらい前の話。


 話ついでに記しておくと、ゲラを読む/読まないについては様々な考え方がある。郵便物の整理などをしていると、バンバン文芸担当者あてにゲラが送られてくるのがよく判る。こちらから望んだものもあるだろう。営業さんや編集さんと関係性が出来た、その中で送って頂けることもあるだろう。まったくの「送りつけ」という場合もあるだろう。ある地方店経験の長い僕の同僚――月にゲラも含めて50冊は読むという、人として半ばおかしい領域に到達している人間だ――は、「ゲラを読んでしっかりコメントを返せば、さすがに露骨な減数はないからね」と話してくれた。部数確保のためのゲラ読み。これは実態としては立派な業務となるだろう。しかし、それは自分の時間を削ってということになるのだが。

 
 閑話休題。ふたつめの体験。一時期、ある新聞社系のサイトに本の紹介をする羽目になったことがある。本社が絡んだ案件であったので、サイトで見える部分は勿論判るのだが、運営実態は全く不明であった。1年間でたしか5,6回は原稿を書いたのだが、少なくとも半分はボツになった。採用になった際の対価は図書カード¥1,000分であった。まあ、こんなもんなんだろうな、と思った。中途半端に本社が絡んでいてもいたので、僕にはかなりどうでもいい案件であった。断るほどの額でもないな、とも思った。


 続いて、帯にコメントを、とのお申し出を頂いたことがある。これも少し縁があり、ゲラまで拝見したかどうかは覚えていない。営業さんも新刊発売当初から随分と力を入れてくださった。じっさいこれもよいセールスだった。その二度目か三度目かの重版の時に頂いたお申し出であった。「弊社の規定ではこうしたことをお願いする時の謝礼は一万なのですが、よいでしょうか」と、その時はきっちりと最初にお話があった。「いやあ、いいですよそんな」と僕は即座に断った。それまでに経験していたのが上記の¥3,000だったから、いやに高いなあ、と物おじしたのもあるし、まあ、一度はお断りするのが礼儀だろうとも思った。そうしたらあっさり引き下がられてしまったのだけれども、別にそれはうらみにも何にも思っていない。その営業さんにはいろいろとお世話になっていたし、もうちょっと別のところにカネを回してほしいという思いもあった。まだその帯が生きているのかどうかは確認していない。


 人前でしゃべらなけりゃならない機会になったことが、3度ほどある。ひとつは業界内の内輪の集まりで、他書店の書店員とあるテーマについて話をすることとなった。時間にして僕の持ち分は30分程度であろうか。この時は別段謝礼の話もなくそんことを期待してもいなかった。その後どうやら懇親会的なものがあったようなのだが、そうした場が嫌いなので早々に立ち去った。あるいはそうした場に出れば、講演料代わりに一杯くらいおごってもらえたのかもしれないが、それもまた妙な話ではある。上原專祿の「学芸会」を気取る気などさらさらないが、よほどの関係性のある相手でなければ、自分がしゃべった後に気さくに話をするようなことは出来ない。慣れていないことだから、消尽してしまうのだ。


 だいたい、ふだんから付き合い酒は避けている。結果として「接待」を受けた格好になった飲食はもちろんあるが、関係性の薄い間柄では申し訳ないが気が乗らない。営業さんからすればそれも「仕事」なのだろうが、そんな「仕事」に付き合わせるのは心苦しくもある。もはや声もかけられなくなったが、かえってありがたい。

 
 話を戻そう。二度目の機会は、これもまた比較的業界内の集まりであったが、入場料を500円ばかりとる場であった。この時も他の書店の書店員(大先輩であって、普段なら僕のようなものは一緒には話せないような方であった)と一緒で、これもまた僕の持ち分は30分ほどであった。この時の講師料は¥5,000を提示され、確か明確に事前にお断りした記憶がある。だが、講演終了後には「今後のこともあるから」と改めてお話を受け、頂戴した。今後のことは、今のところ何もない。受け取ってよいものだったのかどうかは、いまだによく判らない。


 三度目の機会は、ある学校での講義であった。時間は90分。手取りで¥9,000。これは会社がらみの公式の依頼であった。別にぼくでなくてよい案件だったのだが、致し方ない。曲がりなりにも学生時代にあれこれやっていた身としては、学生相手にしゃべる機会で謝礼を頂くのはいかがなものかと思い、謝礼を固辞したい旨具申したのだが、上司に叱られた。もらってから考えるか、と思ったが、振込まれてからしばらくたつものの、何もしていない。我ながらだらしないものである。まあ、しょせんこんなものだ。


 事前にカネの話があった場合/なかった(か記憶していない)場合、固辞した場合と受け取った場合、あれこれある。実際にコメントなり話のために使った時間はほぼ業務時間外のことであり、それがいいのかわるいのか判らない。


 対価をもっと受け取りたいとも思わない。いや、もっと景気が良ければ「多少は俺にも分け前をくれよ」と思えるかもしれないが、そこはちょっとおいておこう。しかし最近、こうしたいわばこれも仕事と割り切る態度、縮小する業界が少しでも盛り上がるのならという気持ち――こうした思いで業務時間外のあれこれを「正当化」するのには「無理」があるのではないか、と思うようになってきた。自分の世代はそれでよいかもしれないが、実はこうした態度こそが、より若い世代にこの業界を、あるいは職場を、「キツイ」と思わせている要因になってはいないか、ということだ。


 若い世代から順番に書店業界を去っていくように思われる。それはそれで仕方のないことかもしれない。引きとめる根拠はない。けれど、もし自分のやり方を以て「あんなことをやってられるかよ」と思われたのであれば……。まあ、そんなこともよくあることではあるのだろうけれども。


 最後の最後にもうひとつだけ。ある座談会に参加することになったことがある。複数の書店員と著者を交えてのもの。その座談会はたしか単行本に収録されているはずだ。最初に謝礼の話はなかったし、終ってからもそうした話はなかった。献本が一冊送られてきたが、献本はほとんどの場合断っているのでお返しした。担当編集さんとは何度かやりとりをしたけれど、関係性が構築できるとは思えなかった。別にそれは悪いことではない。ただ、そうであったというだけだ。


 別段対価が欲しいと思って参加したわけではない。かといって一部――特に文芸系が中心と思われる――著者と直接対話する場に漂う妙な多幸感を得たいとも思ったわけではない。僕にとってはただ、書き手と売り手がどこまで対峙できるかを試みようとしてみただけであった。自分の力の無さを思い知ったという意味で僕には意味があったし、それで十分だった。むやみやたらと書き手と接触したがる書店員を、僕は理解できないでいる。

 
 しかし、冷静に考えてみて、広告や帯のコメントで発生するカネが、本の内容そのものについては発生しないというのはどういうことなのだろう。新聞やテレビによる取材を受ける場合もあったけれども、これらは当然謝礼などはない。ああそうか、してみると、本の中身を構成すると思われる座談会というのは、そうした取材と同一なのだろう。座談会の場では珈琲を一杯おごってもらったが、それで十分だと考えてみなくてはなるまい。

 
 してみると。自分が扱い、日々商っている「言葉のパッケージ」たる「本」の、「原価」とは何か。
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by todoroki-tetsu | 2012-09-16 00:05 | 業界 | Comments(0)

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